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教師の卵はせめて意欲的であれ

2016-02-13
試験答案にレポート
向き合って見えること感じること
問いの意に添ってせめて意欲的であれ

研究室の机上には、試験答案やレポートが科目ごとに山積されている。今週前半は校外に赴くことばかりで、ようやく本腰で評価作業に入ることができた。講義で何を課題とし如何様に学び、その解決について様々に思考したか。試験やレポートは、その学びを表現したものに他ならない。よって学生にとっては、今まで知らなかったことを知ることで、自らの考え方の傾向や方針がどのようなものであるかという客観的な自己認識を言語化する作業ともいえよう。よって講義というライブ性ある場に参加して、そこで提供される様々な情報を的確に掬い取り、担当者もどのような傾向で思考するのかを探る模索を鍛錬することでもある。その講義の「読解」「探り合い」「対話」から試験答案やレポートの書き方も自ずと創造され、そこに自己の「意欲」を注入して一つに纏め上げる。こうした思考の具現化の「練習」が、まさに大学講義で学ぶことなのだと体験的に思うのである。

だが最近、評価に及んで感じるのは、こうした「対話」的な訴えを持った答案・レポートが少ないことだ。換言すれば、「課題」が「読解」できていないと言えばよいだろうか。特に入学直後の1年生にこうした傾向が強いように思っている。問題意識を講義で伝えて、その場での思考のために「授業」ごとにレビューも書いて提出させている。何を「答えればよいか」ではなく、「何が課題でどのような方法でどのように考えたらよいかを探り出す作業」がそこにある。こうした思考過程を最終的に集成しまとめて言語化するのが試験やレポートのはずだ。よってせめて意欲的に書き尽くされていることを願って、その紙面に僕は向かっている。教員養成を旨とする学部において、知識や型通りの内容が示されるよりも、こうした課題解決意識のある誤魔化さない創造的な答案を期待したい。教員として大切なのは、「すべてを知っている」ような顔をして誤魔化すのではなく、「知らない」ことに謙虚に素直な態度で臨むことだ。「知識」は、調べればすぐに分かる時代。よって自ら思考できる力こそが教員に必要であり、せめて教育への志があるならば不器用でぎこちなくとも、意欲的に表現する態度があるべきではないだろうか。

夜は大学院生との語らいの時間
「大人は誤魔化せても子どもは誤魔化せない」
4月からの新人教員へこんな趣旨こそが、僕の餞の言葉である。

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