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一般論という恣意に御用心

2016-02-11
「一般的に・・・・・」
と言うが易し証明するは難し
恣意を正当化する格好な語彙

もとより「中立性」とは何かという定義さえも、発言者の恣意によって多様であることを覚えておくことだ。世は「公平」「中立」であると思うことそのものが、幻想なのかもしれない。ただその「幻」を想念し「理想」を描き、何が「常識」であって「一般的」であるかという指標を、様々な事象から明らかにする作業を「研究」と呼ぶのかもしれない。だが、時にその研究成果でさえも恣意的に無視され、恣意的に利用されることがある。誠に世は複雑で多種多様な「思い込み」によって、成り立っているといえるのかもしれない。

3.11以降、この「一般論」が更に危うくなったのかもしれない。我々の安全という生きる第一義なことにおける情報さえもが錯綜する。何を信じればよいのかがわからない、いわば「一般論」なき世情となったといえよう。目に見えざるものは数値で示すしかないが、信ずるべき「公平」な基準に懐疑や恣意が渦巻き、妥当性が見えづらいということがまた明白になった。地名の「読み方」はまさに「一般論」であり、歴史的懸案となっている場所であるならば尚更、国民の8割以上は、いや小学生の8割と言い換えても、その「一般論」を知識として覚えているはずだ。(もちろんここでの「8割」も恣意に他ならない)それは単なる「知識」ではなく、懸案課題に対する我々の意志であろう。このような価値観の揺らぎを、僕たちは注意深く拒む必要がある。

まずは主張を受け入れる
相手の立場になって物事を考える
もとより一般論など歴史の変転の中では無力でしかない。
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