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現職教員が学ぶということ

2016-02-07
拡がりを見せる教職大学院
現職教員研鑽の場として如何に機能するか
課題研究発表会に参加して・・・

人文社会系や教員養成系学部の再編に伴い、当該学部の大学院設置にも変化が及んでいる。従前の教育学研究科を再編し、教職大学院に改める動きが各地で本格化する。となればこれまでは「国語(教育)専攻」に入学すれば「日本文学」の研究が表面的にも可能であったが、教職大学院では、実践と関連をもたせた「国語教育」のみの専攻となる建前だ。僕自身は、前者のように設定された教育学研究科を修士・博士後期と進んできたので、「日本文学」と「国語教育」を融合した研究を進めることができた。現場での実務(教員)経験もあり研究実績もあるのが、最近の教員養成学部の公募採用要件となってきたが、僕の場合はこの”時代”への先見の明があったと自負してよいのだろう。そのような経歴を持つ僕自身が思う教員の研鑽のあり方を、あらためて考えさせられる1日となった。

現職教員10年後に修士に入学した僕は、まだ20代で年下の院生たちに特別扱いしないように懇願した。10年間の教員生活によって学んだことも多かったが、埃を被った倨傲が無自覚に巣食っていることの方に恐れを抱いた。修士課程在学中、ある時大学院ゼミで発表をすると、年下の後期課程の院生が「中村さんの発表は、人に上から教えるように聞こえる。」といった趣旨のことを僕に投げ掛けた。大学院で研究を発表するということは、ゼミや研究学会ではまったく公平な立場であるはずだ。中高校教員として「教え込む」癖のついてしまった僕は、その「公平性」に無頓着な感覚に陥ってしまっていたのだ。無自覚な「倨傲(自分が偉いと思って、他人を見下した態度をとること。)新明解国語辞典第6版より」ほど愚かしいことはない。物理的に一段高い教壇経験を繰り返していると、いつしかこのような”病”になってしまっている。よき教員であるためには、その倨傲を打ち砕くが如き経験を持つ必要がある。これは大学教員でも同じで、研究学会等で自らの発表を絶やすことなく、倨傲の陰に身を置きそうになったら、即座に砕いてもらう環境を自ら進んで設定しなければならないだろう。よって教職大学院という場で学ぶ教員も、特別な研究をしたという虚栄に溺れるのではなく、学部卒の院生たちとともに「白紙」に立ち戻り、自らがどれほどにか「知らない」ことを身に沁みて感得する機会であるべきだと思うのである。少なくとも「大学院」と名の付く学びの場では、簡単に称賛されてはならないというのが、僕の信念である。

スクールリーダー・スーパーティーチャー?
教員組織の中に「階層」があってはならない
学習者とともに学ぶ「協働」の理念は、教員の真の研鑽により成り立つのではないのだろうか。

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