「言うまでもありません」たる病
2016-01-27
適切・的確・遵守基準が動くのではなく
混沌たる対話と議論を避けるべきにあらず
教員養成を担う身として、最近は学生の「教育体験」に注目している。「国語」を専攻した学生でも、小中高校の学習を通じて教科内容が好きであったとは限らない現状を重く見たからだ。「教科内容」というと語弊があるかもしれない。正直なところ「授業内容」と言った方が正確だ。教材たる文学の中身はとても好きであるし、読書も好きだが、どうも「国語」の「授業」は嫌いだったという学生があまりにも多いのだ。特に、「登場人物の心情を答える」ことや「作者の意図を答える」という問いに対して、「答え」を唯一無二の一つに決めることへの抵抗感を持つ者が多いことを、改めて実感している。自分たちが混沌とした議論の末に、森林を掻き分け大海で方向を模索し泳ぎ切って、ある地点に辿り着くが如き冒険的な誘惑と達成感には程遠い過程によって、「国語」が学習されてきてしまうということだ。
所謂「答え」ありきの出来レースのような学習に、辟易しているということだろう。巷間でも議論たる場であるにもかかわらず、己の御都合主義な一解釈を主張する折に、「(この立場が適切であるのは)言うまでもありません。」などと豪語している光景を最近、よく眼にするようになった。学校の授業で言えば、学習者個々の意見を尊重するのではなく、教師が指導書に書いてあることを鵜呑みにして、上から強引に押し付けるのと同じである。しかもそれが悪質なのは、一旦は「議論した」「意見は聞いた」と市民や学習者を”踊らせる”ことで、「十分な議論はし尽くされた」という建前を翳して正当性を主張することだ。〈教室〉全体では、これを「正解」とするとされたとしても、「私はそうは思わない」という学習者も多々いるということだ。狭量な議論によって「正解」ならぬ偏向した「思い込み」を押し付けられては、「国語」が好きになろうはずもない。
世界での学力を視野に
今、このくにの教育が社会が取るべき方向は?
築き上げてきた社会構造の根本的堕落へと向かっていなければよいのだが・・・
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