ちがうねよりもそうかもね

2016-01-09
人の話を聞いたときの反応
「それはちがうね」と
「そうかもしれないね」と

「人の話を聞くときは?」と園長が問い掛けると、「相手の眼を見てしっかり聞きます」と園児は呼応する。これが僕の通っていた幼稚園の習慣になった標語であった。どうもそれ以来、小中高大学と授業などでも、先生の眼を見て聞く習慣が根付いた。それは社会人になってからでも同様で、様々な場面で「相手の眼を見て」話を聞くのが通例となっている。もちろん自ら話をするときもその反転であり、「相手の眼を見てしっかり話す」のが常だと思っている。社会で様々な方と相対すると、「人の話を聞く」直後に「それはちがうね」という反応をする方がいる。場合によると「ちがう」と即座に口に出す。その際の「眼」は、まさに「しっかり聞く」意志が薄く、持論こそが絶対であるかのような固着した思考に覆われている。

国会答弁を聞いていて気になるのが、質問における「指摘」に対して「当たらない」「的外れ」と反応することだ。「質問」とは元来「問いを質す」と訓ずることができ、疑問の内実を精査し指摘してはっきりとさせることだ。ある考え方は他の視点から見れば「指摘」できることもあるわけで、その「他」の見方も一旦は引き受け比較して、それ相応の価値や理由を述べるのが議論の本道であろう。われわれ研究者が学会発表などで質問を受けた際に、「その指摘は当たらない。的外れだ。」といった答弁が可能であろうはずもない。まずはその疑問へ真摯に対応して、自らの論を導き出したあらゆる過程から、「疑問」を「質す」ことで相手を納得させ自説を論証していくのが議論の道筋というものだ。

他者の意見に「そうかもしれないね」
そして自らの思考に「それはちがうね」
知性とはもとより謙虚な上で強情なものなのではないかと思う。
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