揺れる「グッド・ラック」の意味

2015-12-21
「矛盾した意味、異なった意味が加わったとき、
 ことばはそそけ立ち、異質な要素との間にスパークを発します。
 この「矛盾の共在」の発するスパークを「ポエジイ」と呼びます。」
(吉野弘『現代詩入門』2014青土社 p228・229)

一昨日の公開講座準備のため、あらためて吉野弘の詩作に触れつつ、またその詩に対する吉野自身の見解を読む機会を得た。昨日も記したが、「夕焼け」「I was born」「虹の足」「奈々子に」などの教材化された著名な詩のみならず、吉野の詩には本来は学校現場で児童・生徒に考えてもらいたいことの契機となることばが満載されているように思う。とりわけ昨今の「言語活動」中心に行なわれる授業形態においては、意識を喚起する上で意義深いと考えられる。その中に今回僕が朗読した「香水ーグッド・ラック」という作品がある。ベトナム戦争当時、日本に帰休していた兵士がテレビのワイドショーに出演し、インタビューを受けた後に、去り際に司会者がかけた「グッド・ラック」のことばに、冒頭のような「スパーク」を感じ取ったことから吉野が詩作に至ったものである。同書『現代詩入門』には、「グッド・ラック」という言葉を、「どうぞ幸運に」とか、むしろ「お大事に」「お大切に」といった様々な翻訳の中にあって、吉野の受け止め方が錯綜したという趣旨のことが記されている。

その上で「兵士の置かれている苛酷な環境と、栗原さん(テレビ司会者・中村注)や私の置かれている安全な環境との裂け目の大きさを、この言葉は何ともいいようもない程鮮やかに私につきつけたのです。」と吉野は記している。自分たちが埒外に置かれた他者に対して、どのように激励するかということは、実に深刻な問題であろう。それが「戦場」という「一条の死」(詩中のことば)と直面した場であれば尚更である。我々もよく使用してしまうのだが「頑張って」のことばが、時に適切ではない場面があるのではないか、などということも僕自身は感じることも多い。身近な親族でも指導する学生にも、はてまたスポーツ選手にも「頑張って」ということばをあまりに安易に掛けていないだろうか。困窮のどん底にいる者に対して、更に「頑張る」という柔軟性のない硬直を求めることばを掛けて、果たして助け合う親類として、教育者として妥当な行動なのだろうかということである。米国に野球観戦によく行っていた頃、選手たちに「頑張って」ということばを掛けたくなった折に、適切な英語が思い浮かばなかったことがある。そう、英語に「頑張る」という趣旨の語彙自体がないのである。そこで友人に趣旨を説明して教えてもらった語彙が「グッド・ラック」であった。最初は僕も、吉野が感じた程の「死」に直面する者に使用した衝撃ではないが、ある種の違和感を覚えざるを得なかった。だが友人曰く、英語圏の人たちは、野球の成績などは自分たちの「頑張り」のみならず、どこか「運命」というか「神のみぞ知る」といった観念をもっているという意味で「グッド・ラック」なのだという説明を受けた。その後、実際にメジャーの選手にこのことばを掛けると、実に納得したような笑顔でファンとしての僕のことばを受け止めてくれたという経験がある。外国語と日本語の間に生じる、文化的背景をもった意味の溝に、僕たちは「矛盾の共在」を感じ取り、また自らの言語の持つ閉塞性に気付かされるのである。

自らの意志ではどうにもならないこと
「矛盾」だらけの世の中でことばの奥行きをしっかり見据える
「頑張る」「グッド・ラック」その隙間に命を賭するという状況などあってはならいのだが・・・
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