素人落語・・・身体化に到らない未熟

2015-11-22
次を模索し辿りながら話すのと
観客を見渡し身体から話が湧き出るのと
己の中にある熟練と未熟を痛感する体験

落語家・金原亭馬治師匠の滞在4日にわたる最終日。大学での一般向け公開講座「古典落語の力」を開催した。前半後半に分けて3時間(講義2コマ分)の内容であるが、中間に「落語対談」を挟み込んで、各一席の高座と相成った。そこで必然的に?「前座」が必要になることもあり、久し振りに僕自身が高座に上がることになった。まず選んだ演目は「牛褒め」で、この前2日間の小学校でのワークにおいて、馬治師匠が児童にも分かり易い噺とし披露したものである。主人公「与太郎」を中心に「おとっつぁん(お父さん)」と「おじさん」との会話の妙が主眼となる演目である。約1ヵ月前から、過去の馬治師匠の映像を観たり、原稿化された文字を読んだりとネタを仕込んで来たのだが、いざ高座に上がると噺の大半が「会話」であることに戸惑う自分が立ち現れて来てしまった。愚かしい「与太郎」と「大人」との会話の落差がこの演目の鍵になるだけに、「愚昧」と「理性」とが絶妙な「間(ま)」をもって会話しなければならない。如何に日常の大学講義等では、「理性」のみを働かせて話している自分を思い知る結果となった。やはり「馬鹿」になれないと駄目なのである。

正直なところ、観客たる受講者の方々の顔を見る余裕もなく、噺の展開を頭の中で模索しながら(それでも錯綜する箇所もあったのだが)、何とか「下げ」まで辿り着けた。高座を下りると、何とも言えない自己嫌悪感に襲われ、己の未熟さを痛感した。「人前で話す」ことには、かなりの自信を持っているだけに、こうした状況は聊かショックであった。もちろんプロたる馬治師匠の映像を観て、生で直近2日間も同じ演目を観ているだけに、同じようにできるわけはないが、「理想」として自分もできるという「傲倨な幻想」が心の隅に巣食っていたのは確かだ。そこで冷静に己を省みると、やはり「頭の中」で「できる」と思い込むことは、現実にできるわけではないということである。特に今回は、実際に人に聞いてもらうといった稽古機会を設けることがなかなかできなかった。聞き手なしに独りで呟くのでは、なかなか「表現」として熟すわけはない。ゼミ生でも講義受講者でも仮に聞いてくれる対象を設定し、「恥を曝す」必要があったということかもしれない。真に聴衆に伝わる弁舌というものは、その内容を熟知し腑に落ちた上で声に出して「表現」を繰り返すことで初めて達する、「高度な身体化」が必要であることをあらためて悟った。現に2席目の演目「紀州」は、最初に落語の挑戦した際に「自分のもの」にして、更に何度も演じたことのあるネタである。頭の中で噺を辿らずしても、聴衆を静観し「表現」することに専念できた。自ずとマクラや挿入したネタなども冴えて受講者の方々に伝わった印象が持てた。これで少しは自信を取り戻したのだが、一席目を演じている際の「自分」の追い込まれ方は尋常ではなかった。唇は枯渇し眼は泳いでいたに違いない。

傲倨な幻想から抜け出してこそ
また「表現」へ謙虚に向き合う己になれる
馬治師匠の巧妙・堅実な噺を聴いて、あらためて「表現」することの奥深さを悟った。
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