話し言葉推奨の金田一さん

2015-11-14
国語が得意な人が教科書を作ってはならず
文字信仰は記号言語というつまらないものしか見えず
ユーモアなく話し言葉の価値が低いこのくにの「国語」・・・

九州地区中学校国語教育研究大会が、勤務校にほど近い中学校を会場に開催された。日頃から共同研究をしている大学附属中学校の先生も公開授業に臨むとあって、朝一番から会場に出向いた。中学校3年生定番教材である魯迅『故郷』を視点を変えて人物像を読むといった趣旨の授業が展開され、生徒たちが話し合い活動を通して読みが変様し深まることを主眼としていた。小説教材の授業において、「視点」を意識して読むことは重要だ。それを「教える」のではなく、生徒たちが自らの思考の中で「発見する」といった構成となっていた授業は大変参考になった。午後には実践研究発表があり、隣県の中学校の先生も含めて日常の授業の様々な模索と工夫の足跡を辿ることができた。

さてこの研究大会の「トリ」は、金田一秀穂氏の講演である。日本語教育関連のTV番組でも著名な方であるが、まずはこの「金田一」という姓から何を思うか?まさにそこから話は始まった。どうやら御自身も御子息も中学校1年生の担任は、必ず「国語」であったという。中学校側にどのような意識が働いたかは知る術もないが、偶然というより「金田一」の名に反応したという方が必然的な解釈となろう。僕自身もかなり幼少の頃から辞書を読むのが好きであったが、その表紙に金文字で筆頭に輝く「金田一」は大変気になっていた。それはまさしく秀穂氏の祖父「京助」や父「春彦」である。そんな秀穂氏の幼少の頃の読書体験は、時刻表や旅行地図の愛好であったと云う。虚構の小説はつまらないと感じ、頭の中でどこまででも旅行の想像ができるのが何よりの娯楽であったと、この日も楽しそうに語っていた。

「語る」といえば、この秀穂氏の講演は「原稿なし」である。しかも体育館の壇上にある演台で話すことを拒否され、ぼくたち聴衆と同じ高さのフロアーで同じ視線で反応を受け取りながら話していた。それは講演全体の主旨である「日本では話し言葉の価値が低い」ということに対して、まずは自らその価値を上げる活動を実践していたともいえる。講演では「国語」という教科でも感想文を始めとして「作文」ばかりが重視され、「演説・スピーチ」は軽視されることが指摘される。更に具体例として宗教的な開拓者たるキリスト・孔子・釈迦・モハメッドらは書物を書いておらず、遺されたのは「言行録」である。ソクラテスはプラトンに曰く、「文字はつまらない」もので、「修正せず応えようともせず」に記憶力を衰退させる代物だと語った。ことばは「バーチャル」なもので「生きた人から学ぶ」ことが必要だという典型的な例だとする。このように思考にも重要な「話し言葉」を特に日本人は使用しようとしない。それは旅先で「外国人なら道を聞くが、日本人は地図を見る(探す)」という。まさに「話し言葉」を使おうとしない典型的な例として挙げられた。それゆえに日本の政治家のことばは貧困であり、「書き言葉」を読み上げるに過ぎないから伝わらないと指摘し、欧米の政治家の演説とは根本的に違うのだとする。これはもとより日本の教育環境に起因しているということだろう。ゆえに国会を含めて真っ当な議論が為されることはなく、「答え」をすぐに求めるという短絡的な思考に民も陥っているのではないかという指摘に発展する。ゆえにこの国には民主主義が根付かないのだという域まで、金田一氏の「話し言葉」には、訴える力があった。こうした趣旨を自らの講演でそのまま体現したわけであり、講演題の「言葉のちから」そのものであったというわけである。

音読・朗読を研究する身として
三十一文字のことばの繊細さを研究する立場として
「話し言葉推奨」という刺激的な講演であった。

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