「語り」に見る「思考・言語・ことば」
2015-11-07
「内言=思考・外言=言語むすびつけるプロセス=ことば」
(細川英雄氏主宰メルマガ「ルビュ言語文化教育研究」の趣旨より)
地元放送局パーソナリティである薗田潤子氏を中心とする「語りの会」が開催され、拝聴に伺った。小説作品を「朗読」するのではなく、すべて諳んじて「語り」聞かせるという主義の表現芸術である。かなり長編となる作品で1人あたり40分ほども、思考の中に収められた小説世界を、身体一つで表現し続ける。地の文の語りと台詞部分をどのように語り分けるか、といったあたりに演者の苦心が滲み出ているように僕には思えた。そして台詞というものは、小説世界の「場」を創造的に醸し出す装置として、文字言語では成し得ない機能があることに気付かされた。僕の”守備範囲”からすると、「朗読」と「落語」の折衷した存在として興味深い。以前に薗田氏からご教示いただいたのだが、「小説を読んでは伝わらない、語るのです。」というわけである。
奇しくもこの日に届いた細川英雄氏主宰「八ヶ岳アカデメイア」のメルマガに、冒頭に記したような趣旨のことが巻頭に記されていた。「表現」とは、「身体感覚→思考→言語」といった「活動の総体」なのであり、これを有機的に結びつけているのが「ことば」だというのだ。「言語」と「ことば」を別次元から定義している点でも興味深く、また「複言語複文化主義」の基本ともなる考え方ということになろう。「人ひとり一人」の中にそれぞれの「言語」が存在し、それを基盤とする「文化」が表象されるといった考え方である。一般的に小説などは「黙読」をすることで、「内言」として「ひとり」のうちなる「思考」の中で享受される。その小説の「文字」を外に向けて「言語」化するのが「朗読」(「音読」とも)ということになる。だが僕が以前から著書などを通じて主張して来たように、学校での「朗読」はなかなか「ことば」にならない。いわば、「棒読み」(僕はこれを批判的に「教科書読み」と呼称しているが)となって単に「文字」を「思考」なく音声化しているに過ぎない。こうした意味で前段に紹介した「語り」も、「思考」を「言語」にするのみならず、総体としての「ことば」へのこだわりをもった表現行為といえるだろう。こんなことをあらためて考える機会となった。
「音読・朗読」を考えるには
あらゆる分野の視点と体験が必要である
研究そのものを「内言」に留めず、「ことば」になるように挑むべきと悟る。
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