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感覚が違う人と対話できる力

2015-10-26
なぜその教科を学ばなければならないのか?
生きる上での学びとは何であろう
時代とともに教員の役割はどう変質しているのか・・・

均質性・横並び・平等な社会を形成することが自明であった時代は、既に過去のものとなったのであろうか?多様性・能力効率主義・格差があることに大義ある時代が到来して既に久しい。自由に競争しある特定の枠組みの能力に長けた者が、一部で大きな力を握る社会ともいえるであろう。そこで注意したいのは、多様性を認めることを表面に掲げることで、無自覚に格差が助長されてしまう傾向である。誰しもが知らぬ間に足元に忍び寄る抑圧的な力が、やがて多様性の仮面を剥ぎ取り、重石で上から抑え込まれたような横塊を構成する。僕たちはこの嵌まり込んではいけない二項対立の圧力から、自由になる道を選ぶべく同調圧力を注意深く拒む必要があるのだろう。

冒頭に掲げたテーマを記そうと筆を進めるうちに、やや趣旨が反れてしまった感がある。だがしかし、教育・学校・教員という存在を考えるとき、こんな社会のあり様に対して常に自覚的でありたいと思う。それは教育そのものが、将来の社会を構成する要素を種のように子どもたちの内部に蒔くという行為に他ならないからである。それでは「国語」という教科の中で、子どもたちに提供する「夢の種」とは何か?2日間の研究学会に出席しながら、いつもこんな疑問が脳裏を逡巡していた。「教材内容」「教科内容」「教育内容」を意識して授業を構想して行く教師の養成。理論と実践の狭間で均衡をもった対応のできる感覚。新たに喧伝されている「アクティブラーニング」なる方法に潜む危うい罠への自覚。何より大学という教育の場で教える教師自身が、時代に即応し過去・現在・未来において批判的な視点をもった教授法を採り得ているか。異質なる他者に出逢い続けて、自らの感覚を研ぎ澄ましているかが問われるのではないか。等々という自問自答が永遠に続くのである。その上で「夢の種」と共通する理念は、「感覚が違う人と対話できる力」という点に、とりあえずは漂着するのである。

研究学会を終えて寄席へ向かう
友人である噺家師匠の晴れ姿
彼を介して、また僕自身が異質な他者に出逢い続けることができるのである。
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