和歌こそ学びの主役たれ
2015-10-11
「和歌リテラシー」「和歌は文として読む」
「演じて学ぶ古典」などなど・・・
和歌文学会創立60周年記念シンポジウム「和歌を学び 教えるということ」が開催された。パネリストは、筑波大の石塚修氏・米子工業高専の渡辺健氏・東京大学の渡部泰明氏のお三方である。冒頭に記したのは、順に各氏の報告の骨子であるが、能動的な活動型学習が模索される中で、和歌を教材として如何に小中高生の学びを創り、教えるかという話題が前向きに討議された。単なる教材読解に終始していた向きのある古典和歌学習をどう改革するか?それは今後の和歌研究者発掘という学会の存在にも関わり、また和歌を研究しそれが社会にどのように還元されるかという切実な問題を、今の世相の中では考えねばなるまい。読解そのものの意欲を醸成するために、和歌を創作する機会を設け、発表交流していく。その中で和歌独特の修辞や韻律などで「遊ぶ」工夫をする。概ねそのような方向での学びの模索が見えてきたようであった。
僕自身の現場経験や教育現場の視察参観から感じられることは、「和歌教材」そのものの軽視である。古典では「散文を学ぶもの」ということが前提になっているように思われる。和歌教材は教科書に必ず収載されていながら、断片的に時間数も少なく扱われてしまう。近現代以降の散文中心的な考え方が、そのまま古典にも当て嵌められているような印象だ。更に敷衍して考えてみれば、「詩歌」そのものを軽視する傾向も否めない。現場の教師が「詩歌の授業は感覚的でやりにくい」という先入観から抜け出せないでいる。となるとこのシンポジウムで石塚氏も強調されていたように、「和歌への意識高い教師」を養成することが大変重要な課題となろう。そのためにも大学学部段階で授業技術に偏向せず、また教科専門教育の中で均衡ある知識と活用力を養わなければなるまい。古典和歌研究と国語教育の二刀流で歩んでいる僕自身には、まさに大きな使命が課せられた思いで、懇親会でも様々な交流に及んだ。
能動的和歌学習を創る
創作し声で表現する
いまいちど和歌研究をする意味を自問自答するのである。
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