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実感!「信実は空虚な妄想ではなかった」

2015-10-06
「信実は空虚な妄想ではなかった」
太宰治『走れメロス』より
「朗読」もやはりそうであった

附属中学校との共同研究の一環として、「朗読授業」を2時間いただいた。当初は『走れメロス』を学習する2年生を対象とする企画案を提出したが、「せっかくの機会だから」と全校行事での開講となった。約480名に対して朗読を提供し、その上で生徒たちにも活動の時間を与えるため、いくつかの案を構想した。小説冒頭文は全員で声を合わせて準備運動、ただ「メロス」の人物説明の語りは学年毎に読んで、声の出を確かめていく。その冒頭の「メロスは激怒した。」という部分に「なぜ?」という疑問を呈すると、市(まち)での「老爺」と「メロス」の会話が浮上して来る。この小説冒頭は、こうした「プロット」構造になっているわけだが、そこを「理論」ではなく、体感していく活動となる。更に「王」と「メロス」の会話。「王」は「暴君」などと小説にも書き込まれているが、実は孤独で寂しい存在。それでも「メロス」への対応で人間の腹黒い部分を露呈するという、実に複雑な台詞をどう読むかによって、この小説への見方も大きく変わるだろう。以上が前半の「台詞対話活動」である。

後半は、「メロス」が心身ともに退行し諦めてしまう部分から、再び走れるようになる内面を語る部分を女優あいさんの朗読を倣いシャドーイング。第二言語習得などでよく使う方法であるが、今回は「朗読」に応用してみた。もちろん小説には多様な解釈があることを前提としてはいるが、作品を読み込んで舞台でも演じて来た表現者の声を模倣することも大切だと判断しての設定だ。「習うより慣れろ」とはいうが、どうも〈教室〉での「朗読」は、「正しく適切に」から抜け出せず声が表情を失う。それゆえに、表現者の声に寄り添うことで初めて「腑に落ちる」部分もあるはずだ。「情を読む」といった役者の読みを、生徒は体感できたと信じたい。(今後検証する予定)最後は、小説のラストシーンを3人1組の学年代表が朗読する。そして「バンザイ!王様バンザイ」の部分は、学年の生徒全員が「民衆」として応援の声を送る。選ばれた代表者は、実に楽しそうにこの部分を朗読していた。小説を演じてこそ、その語りの構造が見えて来る。こうした方法を援用すれば、更に小説の学習は豊かになる筈だ。授業後に校長先生が、「朗読を聴いていて涙が止まらなくなりました」と語ってくれたのが、大変僕たちの励みにもなった。貴重な機会を与えてくれた、附属中学校のみなさま全員に感謝したい。

午後は担当講義「国語教材開発演習」で活動の一部を
学生たちの生き生きとした声に希望の未来が見えた
やはり「朗読」とは、人々が「朗らか」になるための「読み」だと信じよう。
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