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上辺で空過する形式だけを観ていては

2015-09-18
能動的学習への転換
授業をどのように観察するか?
遠目から形式を観ているだけでは・・・

学部3年生の教育実習も大詰めとなった。最終日を1日残して、この日は「集中授業」が実施され定まった2教科の実習生代表授業を、附属中学校全教諭と実習生全員、そして僕たち大学教員が参観すると云う一大イベントだ。5年に1回その担当が「教科」に回って来るらしく、今年は「国語」の当たり年であった。附属中学校の先生方が選択したのは僕のゼミ生で、中学校3年生の説明文教材授業の授業を実施した。授業内容は学習者らが自ら書いた説明文を、相互批評しコメントを提供し合い、それをもとによりよい文章に推敲し完成させるというものであった。主に班別活動が中心で、班ごとに交換した自作説明文の対して無記名で改善点などを批評的に指摘し付箋に書いて貼付けていくというもの。その活動を複数回繰り返してできた付箋の付いた自らの説明文を最終的に推敲し、より魅力的でわかりやすい文章に仕上げるという授業実践である。

こうした形式が、まさに「能動的学習」の一形態なのであるが、従来型の一斉教授授業とは大きく内実が異なるのである。よって授業を参観するにしても、遠目から観ていたのでは何も分からない。学習者が付箋に何を書き付けているか、それをどのように自己の推敲に受け容れていくか
という思考過程を観察しないとこの授業の良さは何も分からない。僕たち大学教員や教諭の方々は、班別の机間を巡り歩き学習者の思考を観察した。実習生は人数が多く立ち歩くのも憚られたのであろう、周囲から遠目にその様子を眺めているだけであった。これは単に実習生の意識の問題のみならず、日本の学校が未だ「一対多」の一斉授業形態こそが「授業」だと思い込んでいることに起因するものだと思った。もはやそのような「形式」から脱出するのが、新たなる時代の学力を築くことになるだろう。授業者としては、学習者の思考を可視化し相互に「他者と出会う」機会を醸成し、そこから「自分自身で気付く」対話が成されることに配慮をしていくことになる。これからの授業は「形式」ではなく、「内実」を見定めなければ何も始まらないのである。

概ねこんな趣旨のことを反省会の講評で述べた
公正で正統なる「批評」は中学生でも学んでいる
「議論」の見本であるはずの立法府が頽廃しきっている惨状を尻目に・・・

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