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文学へ帰りたい

2015-09-16
毎日のように息が詰まる
笑いがなくなる社会とはこのことか
されど文学に帰るこころを求めて・・・

小欄の記事そのものからして、どこか「怒り」に満ちた発想のものが続いている。この喩えようもない歴史上の作為的改鋳に接し、その「異常」さに辟易とする毎日だからであろう。世の中というものは、気づいたときには既にその現象は完了している、などとよく評されるのであるが、それだけに「今現在」の悔恨が3年後・5年後にどのような事態を招くかを考えると、自ずと笑ってはいられないという気持ちにもなる。そんな中でも国会で行なわれた中央公聴会の席上、ある大学生が立派に自己の主張を述べたことは、未来への一筋の光ともいえようか。しかもその弁舌の冒頭に、多くの居眠りしている議員に対して「寝てる方々が多いようですが、話を聞いて下さい」と切り出した。例えばこの「希望」を感じること一つでも、TVなどは中継も報道もせずWebを介して情報を取得する者にしか「わからない」ことになってしまっている。我々国民は、知らぬ間にこうした「居眠り」している議員たちに選挙で投票し、そしてそれなりの知識人ですらこうした大学生に対して偏見の眼を向けるようになってしまっている。

というように、本日はこうした物言いを避けようと思ってキーボードを叩き始めたのであるが、やはりこの”ザマ”である。教育に携わる以上、時代を先鋭的に捉えたいという思いから、読書も自ずとそうした類のものを選び、短歌を創作しようとしても”この”情勢を素材にせざるを得ない”闇”が既に訪れている。母親と電話で会話をしてもまた同じ、どこかに「怒り」のモードが相互のことばの中に飛び交うのだ。人文学が貶められる流れも「反知性主義」社会の必然であると書物は語るのであるが、だからこそ「文学」を愛する一人の人間として「平常心」を保った正統なる抵抗をするには、どういった姿勢であるべきかとも考える。太宰治は戦前戦後を通底して「変わらなかった」と評されることが多いのであるが、あの小説の「語り」に学ぶものは何か。「文学」は時代を”書き留める”とともに、所詮は無常なる人間存在を「笑って」受け止めることばでもあるのではないだろうか。そのような境地を見出して、せめて愛すべき身近な肉親らとは、「笑って」過ごすべきではないかと思い直したりもする日々である。

小欄でこのようなことを記す”事態”になるとは
それゆえに一層、明治以降の文学・歴史を学ぶ意欲も高まる
そう!ブレずに文学へ帰りたい。
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