知の自己刷新
2015-09-15
「自分はそれについてはよく知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。
他人の言うことをとりあえず黙って聴く。」(『日本の反知性主義』2015内田樹編 晶文社)
国会答弁を始めとする安保法制の議論を聴いていると、本年3月に出版された冒頭に記した書物において、まさにそれが予見されるかのような記述に何度も出逢う。例えば「反知性主義者たちにおいては、時間が流れない。」といった部分は、どれだけ審議が先に進もうとも再生機の如く同様の答弁を繰り返す政権の姿そのものである。それは「審議時間を費やした」という事実だけが欲しいのであり、この安保法制が「本当にこのくにの安全を保障するものなのか」という根源的な問いに答えようとするものには”見えない”のである。問題点が指摘されても詭弁を弄することだけでその場をしのぎ「自説に固執」し、それのみが「唯一の道」だなどと思い込んでいるように映る。その「固執」を監視し危険性を暴くはずのメディアまでもが、今や「時間が流れない」ことに与している。これほどまでに世論調査が虚構であると思えてしまう状況は、この70年間の中でも希代なことだと思いつつ、「とりあえず黙って聴く」ようにしてみたりする。
冒頭に記した書籍は複数の論者の「アンソロジー」であるが、「反知性主義者たちの肖像」(内田樹担当部分)から学ぶことは多い。「知識人自身がしばしば最悪の反知性主義者としてふるまう」ことを前提として、『アメリカの反知性主義』(2003)から「反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。」という部分を引用し論を展開している。その上で、「自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えている」という「自己刷新」こそが鍵となるとされる。また「その人がいることで集団全体の知的パフォーマンスが高まった」と思える人を「知的」と呼ぶとし、「その人がいるせいで周囲から笑いが消え、疑心暗鬼が生じ、勤労意欲が低下し、誰も創意工夫を提案しなくなるというようなこと」になるのを「反知性的とみなすようにしている」と内田氏は述べる。社会性・公共性とは「過去と未来に向けて、時間的に開放されているかどうか」が問題であるというのだ。こうした思考で内田氏が卒論ゼミで学生に伝えていた内容というのは、大変参考になるものであった。
この日も国会前には「自己刷新」をした人々が多勢集まった
知識があろうが己の「枠組み」に籠もりその民意を「聴く」ことのできない輩
くに全体から「笑いが消え」るとしたらこれほど恐ろしいことはない。
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