fc2ブログ

知識を受け容れて行くには

2015-09-13
「バルトによれば、無知とは知識の欠如ではなく、
知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることができなくなった状態を言う」
( 内田樹『日本の反知性主義』2015晶文社)

和漢比較文学会大会に参加するために、関西に降り立った。早目に会場校に到着し、まずは貴重図書の展観から学ぶ。その影印の文字を追いながら、文学を「読む」ということの原点に思いを致す。国語教育なぞに携わっていると、文を読むということが時空を超えた所業であることを忘れてしまうことがある。偏った知識や技術に「飽和」されては、新たな発想は思い描くことはできない。このように「文学を読む」ということからしか、豊かな「授業」は創造されない。この日のシンポジウムテーマは、「和漢をつなぐ楽とことば」であった。音そして韻律においては、多方面から興味があるので、3人の方々の分野を越境した発表と議論は大変興味深かった。詩は歌われ、音楽性を伴ってこの日本という辺境の地にも伝来してきたのだ。

こうした新たな刺激を常に身に受け続けることが、何より大切であると思う。研究学会は、「学んでいるはず」の己が、まだどれほどに「知らない」かを知る場でもある。その「知らない」ということに謙虚であることこそを、「知性」と呼ぶのであろう。小欄で何度も言及してきた高橋源一郎著『ぼくらの民主主義なんだぜ』(2015朝日新書)は、2011年4月から本年3月までの新聞連載をまとめたものであるから、世相を映し出す記事や書籍の引用が自ずと多い。その上で高橋のことばには、まさに「今」僕たちが考えるべき発想が、馴染み深いことばで書き込まれている。ここに今ひとつ引用をしておこう。

「人は間違える(おれもしょっちゅう間違える)。組織や社会も間違える。国もまた間違える。それがすべての出発点であるように、おれは思う。それがどのような「正義」であれ、「おれは間違っていない」というやつは疑った方がいい。」(p217)

自らの拙さを自覚した時
人はあらたな地平を見出すことができる
丹念に諦めず前を向いていることが「飽和」から解き放たれる唯一の道なのかもしれない。

関連記事
スポンサーサイト



tag :
コメント:












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック:
トラックバック URL:

http://inspire2011.blog.fc2.com/tb.php/2131-1de1c851

<< topページへこのページの先頭へ >>