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攻撃に走らず度量と慎みを

2015-09-08
「人は何かと戦おうとして、
 時に、それと気づかぬうちに、
 攻撃している相手と同じことをしている。」
(高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』2015朝日新書 p107より)

思いもよらず怒って相手を攻撃してはいないか?場合によると「相手」の挑発に乗ってしまい、攻撃的な言動に至ってはいないか?「戦う」ということは「攻撃」あるのみなのだろうか?冒頭に引用した高橋のことばを、身近な問題として考えてみた。高橋は更に「ぼくたちの国では不満が鬱積し、その捌け口として、誰かを、あるいは何かを攻撃する言論が跋扈している。だがそれは何も生み出さず、この国を走る亀裂を深めるだけだ。」と記している。確かにWeb上の言論をはじめとして「攻撃」が溢れた世の中で、何かが起こればメディアも一般の人々も、その対象を「総叩き」にすることに躍起になっている。だが果たしてそれが、住みやすい社会を作ることなのだろうか。組織も個人も、政治・経済も教育でも、「叩かれまい」として保身に凝り固まり、息苦しい社会にしてしまっているのではないだろうか。

巷間のこうした作用を”利用”して、悪意をもち意図的に自らに注目を集めるために民を挑発する輩さえいる。「攻撃」的言動は目立ち、ときに勇猛果敢に”見え”てその人物を”英雄”に虚飾するように働く。当人も社会を変革させるのは己だけだといった傲慢な発想で事に及ぶのであるが、果たしてそれは社会に貢献しているのであろうか。真に平和で住みやすい世の中を構成したいと願うのであれば、慎みをもった自己批判が伴ってこそ、知性ある言動ということになろう。いつの頃からか、このくにでは「攻撃」して自己の既得権益を守るだけの思い遣り無き社会になってしまった。高橋の著書では、朴裕河の『和解のために』2006 2011年に平凡社ライブラリー版)を引用し、次のように記されている。

「被害者の示すべき度量と、
加害者の身につけるべき慎みが出会うとき、
はじめて和解は可能になるはずである。」



政府の沖縄との協議も柔らかく虚飾した「攻撃」に見える
相手の「攻撃」を前提にした「護る」は、いつしか自らが「攻撃」に至る理屈に過ぎない

ぼくたちは「怒り」を、知性を通して変換し
冷静かつ効果的に「闘わずして勝つ」を目指すべきなのだろうか
「民主主義って何だ?」・・・・・
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