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かくも祈り多き夏の日・・・30年前の夕暮れ

2015-08-13
母が、部屋で卒論を書いていた僕を呼ぶ
日航機が行方不明らしいと
急な階段を駆け下りてニュースを観た30年前の記憶

確か卒論の「第2章」下書きを書いていた時だった。屋上に建てられた離れの部屋で、母が日頃から何らかの報せに利用するブザーが鳴った。(当時はもちろん携帯もなく、有線ブザーで下階と繋がっていた)夕暮れ時なので早い食事かと思いきや、「日航ジャンボ機が消息を絶つ」というニュースを報せる為であった。現在なら各自がスマホで「号外ニュース」を「お知らせ機能」ですぐに察知できるが、当時はTVを観ている家族がいて始めて、こうした緊急なニュースを知り得ることができた。であるからこそ、家族と今何が起きているのかを共有する貴重な時間となったのだとも思う。暫くは墜落の可能性が報じられながらも、無事を祈る時間が続いたのだと記憶する。翌日になって祈りも空しく墜落現場が特定された。すると現場と千葉の自衛隊習志野空挺部隊基地との直線上に、僕の実家はあったのだろう。大型ヘリが何機も轟音を立てて北西方面に飛んで行くのを、僕は部屋から屋上に出て真上の空に見上げた。その尋常ならざる空の光景を僕は忘れることはできない。(人命救助に向かうヘリであるのだが、平時ではない緊迫感を眼と耳で感じたからだ。ある意味で、戦時中にB29を見上げたという母の記憶とどこか重なり合う気がする。あの事故は「平時」ではなかったのだ。)暫くするとまた母からブザーの報せ。「生存者がいた」というニュースであった。僕は階段を踏み外すほど倒錯した気分で、再び急な階段を駆け下りた。

あの夏の夕暮れから、30年が経過した。今僕は、あの頃夢であった大学教員となっている。文学のみならず、その教育への応用を考究し僕らしい位置に至ることができたと思っている。この30年の道程は決して順調かつ単線ではなかったが、様々な紆余曲折があってこそ僕らしい縁ある場所に至ることができたような気もする。その間に自らを育んだ分析・批評の姿勢というものは、今現在の僕の「生きる」を支えている。それからすると卒論を書いている頃の僕は、実に短絡的で単純な思考であったと思い返される。この「日航機墜落事故」を、単発的な悲劇としか捉えることができなかったからだ。

詳細な事故の検証は、報道番組や他のネット情報に委ねるが、この事故の「必然性」を批評的に視ざるを得ない僕が今はいる。大量人員の効率的輸送手段として、安全より利潤最優先となってはいなかったのか?後に様々な破綻が暴かれた”ほぼ国営”航空会社の整備を始めとする組織運営は適切であったのか?米国航空機製造メーカーから隷属的無配慮な大量購入していたのではないのか?こうした構造・図式を考えると、「原発依存」も現在問題となっている「安保法案」も、同線上の「過ち」であることが見え隠れするのではないか。「安全」が「神話」の如く喧伝されながら、必ずその破綻が露呈し幾多もの犠牲者を出してしまう。その後には、実に詭弁だらけの言い訳がましい発言が横行するのである。戦後70年そして日航機墜落から30年が経過した。もういい加減、日本社会は頭が良くなってもいいはずなのに・・・

失われた10年20年と云われて久しいが
まさか失われた30年70年への転落に向かってやいないか?
30年70年ばかりでなく、祈り多き夏の日が続く。
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