近現代から学ぶこと
2015-08-11
現実以上の真実がそこにある文学妄信的に肯定し自己批判なき寝物語
虚構性を学ぶ意味など考えた・・・
毎年恒例となったが、近現代文学の集中講義のために来学している先生を囲み宴席がもたれた。1年に1度、同じメンバーで持つ宴席は、七夕ではないが稀少な機会を大切にしようとする思いが起動する。日本の近現代文学を考えるということは、自ずと明治以降の日本社会の構造を読み解くことにも繋がる。戦後70年そして明治維新から147年、あの大きな過ちに至るまでの77年間はこのくにをなぜ泥沼の底まで導いたのか。そして永遠の平和を希求したあの夏から70年を経て、いまなぜ再び過ちへと突き進もうとしているのか。人間はどんなに時代が進もうとも、「過ち」を事前に察知することはできないのか。否、現実以上の真実を読めば察知できるのである。
宴席での話はより実情に即したものであったが、そこに参加してあらためて近現代文学及び歴史を見直すべきだという思いを致した。例えば、漱石『三四郎』冒頭を読むと、汽車の中で「三四郎」が出逢う「髭の男」は、「日本は滅びるね」と警告している。日露戦争勝利の気運に酔い痴れていた明治末の社会の情勢や雰囲気に対し、「髭の男」は「日本より頭の中の方が広い」といった趣旨のことを述べる。あくまで小説内の出来事であるのだが、『三四郎』が執筆された時点から約40年近く経った時代に日本は滅びた。単なる新聞小説がその後の社会情勢を的確に予見していたということだ。やはり文学は無視できない存在であり、自己本位な現実にしがみつこうとする者に対して警句を発する存在にもなり得ている。本来は「広い」はずの「頭の中」を妄信的に肯定し自己批判もせず現実に当て嵌めようとすれば、必然的に矮小な過った選択となるのだ。
近現代・明治という時代に学ぶ
もう遅いのかもしれないがまだ間に合う
「髭の男」の予言が再び現実にならないために僕たちは文学から学び続ける。
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