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「一般」「当然」という語法

2015-07-28
「一般には・・・ことであります。」
「・・・は当然のことであります。」
どちらも発話者の恣意的解釈だと心得た方が・・・

文学教材を読む際に、その表現を「一般化して捉える」などという場合がある。元来が固有の発想で書き込まれたテクストであるものを、「一般」という尺度に押し込めるのは、やはりある特定な解釈者の恣意に拠るもの以外の何物でもないように思う。その「恣意」を包み隠すために、「一般」という誰しもが納得しているように”見える”語彙を使用しているに過ぎない。その「恣意」を更に突き詰めると、実は「例外」が限りなく広がる余地を示唆しているのであり、敢えていうなれば「例外」を「一般」化する意図が透けて見えて来る。某新聞社の「国会答弁」に対する分析記事を読んで、国語の授業にもこうした強引な手法が潜んでいて、その語法の先にこそ、国語に対する不信感や嫌悪感が垣間見えてしまう。



内田樹『ためらいの倫理学』(角川文庫2003)に次のような記述がある。

「私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計算する。自分の博識、公正無私、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。」(p42)


前述の「一般」を語る場合が「公正無私」を、「当然」という語法の場合は「正義」を、「無謬の前提」にものを考えていると露呈しているわけであり、そうした発言者を内田氏は、「「バカ」と呼んでいい」としている。少なくとも「学校」という場では、「論理的思考力」などを育めと云っているのであるから、「バカ」と規定される範疇でものを考えるのは避けるべきであろう。ところが「国語」の授業一つをとってみても、教師は「博識」と見せ掛け、「公正無私」という実は個別で恣意的な尺度を押し付け、偏向した「正義」を翳して反論を押さえ込んでしまっているのではないか。まさに「バカ」を育む授業になってはいないか、ということを授業者がその「無知」「偏見」「イデオロギー」「邪悪」だと「自己批判」していなければ、「論理」や「思考」の前提となる「知性」は育まれないのではないだろうか。

「丁寧に説明する」のが最良の手段なのか?
否、「繊細に緻密に自己批判」できてこそ信頼たる語法となる
などと書き連ねつつ、己が「バカ」かどうかと自問自答し続けている。
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