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「語り」と「朗読」

2015-07-20
昔話をするか絵本を読むか
自説を諳んじるか原稿を読み上げるか
「語り」と「朗読」の境界を考えて

居住地域の放送局で人気のパーソナリティーの方からお声掛けいただいて、ラジオ出演してからちょうど1年となる。60分の番組の中で「朗読と国語教育」や「日本文学の特性」などについて、実に自然と語ることができたのを、あらためて思い出す。僕自身にもパーソナリティーの方にも、台本のようなものはなく、概ね話題の進行の骨子を打ち合わせた程度であったが、意識しない間に自分が語りたいことを語っていた印象がある。後に自分自身で録音を聴いてみると、それなりに納得した内容であった。要は、パーソナリティーの方の「聴く力」が誠に長けていることが一因であったことは間違いない。同時に原稿を「読んでしまう」ということは、自分で原稿を書いたとしても、一歩間違うと「他人の言葉」のように聞こえてしまうことがあるのだということに気付いた機会でもあった。

国語教育で「音読・朗読」をする目的の一つに、「他者の言葉を自分の言葉のように発して、その〈書いた〉〈話した〉立場から考える」ということがある。こうした効用がある反面、前述したようにそれが負の面に作用することもあるわけだ。この日は、前述した人気パーソナリティーの方他2名の「語り」の会を鑑賞した。短編小説を「朗読」するのではなく、ほぼ全文暗誦していてその内容をまさに「語り」聞かせるというものである。仕事柄僕は、「聴く」のみならず「語る」立場はどのようなものかといった想像をしながら、しばし薄明の会場で声に耳を傾け続けた。「語る」声とともに、表情で登場人物の心情を表現する。どこか落語の演じ方にも通ずるので、自己の(落語)経験と重ね合わせたりもしてみた。学校での「暗誦」といえば、脳内に「文字列」を刻み込み、それを音声化するのだが、「語り」(あるいは「落語」)は違う。脳内にある「お話(噺)」を聴衆に伝えようとしているのである。以前に、ある著名な役者さんから「朗読の心得」を直接聞いたことがあったが、自分の頭の中にある映像を聞いている方々に説明するように「読み語る」のだといった趣旨のことを述べていた。まさに「語り」と「朗読」が融合した境地と云うことであろう。

「朗読」でも「文字」を読んでは他者に伝わらない
無意識に作品場面が身体化していてこそ伝わる声となる
音楽も演説も文章もすべて、「作為」があるうちは自分のモノとなっていないのである。

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