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残念な音読

2015-07-14
学ぶ者が音読する
それを聴けばどの程度考えているかが分かる
感覚ではなく思考が表れるからだ

中高教員をしていた頃、授業ではやはり音読を重視していた。古典教材ならば尚更であるが、学習者に読ませると、概ねその教材に対してどの程度の理解をしているかが透けて見えるものである。漢字の読み方に始まり、イントネーションなどの語彙的な基礎を確認できているか。句読点にも大中小があり、文体の流れに沿った拍節をもって読んでいるか。改行にはその文章が伝えようとする力点が空白によって示されているので、適切な呼吸の間が表現されているか。漢語の読み方を間違ったりすれば、その部分に思考的な甚だ深い思い入れがあるか、あるいは軽率に漢語の存在を捉えているかという、正負いずれかの思考が顕在化するというわけである。人間は黙読するに際して如何に己を誤摩化しているか。その精度が表面化するのが音読である。

また、上手く読もうという意欲はありながら、誠に残念な場合もある。読み方を、意味を咀嚼しない”棒読み”状態で練習して来る輩である。深い思考に根ざさない音読練習は、むしろ意味内容を形骸化させ滑稽な音声表現に化ける傾向がある。その上で、読む際に間もなく、聴いている者に伝える意志が弱い場合などは、心から残念に感じてしまう。だがしかし、多くの公的な場での音声表現は、このような「残念な音読」の方が一般的である。政治的答弁・記者会見での謝罪の弁・キャンペーンの宣伝文句に至るまで、個人の豊かで思考ある音読に適っているものは(特に日本では)少ない。ともすると、学校の授業と云う制度がそのような「残念な音読」の方を教育し、多くの日本人が身体化してしまっているのかもしれない。

ことばの重みを自ら感じよう
理解していなければ内容は相手に伝わらない
「残念な音読」が、国語という教科の抱える大きな課題であるようにさえ思う。
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