教育の研究者は何をすべきか?
2015-06-01
理論化すれば良い実践となるのか自らが考える枠組みを押し付けてやいないか
研究者は現職教員や学生にどう関わるべきか
全国大学国語教育学会兵庫大会にて新たな課題研究として「国語科教育における理論と実践の統合(1)」のシンポジウムが開催された。このテーマは、次回今年10月の西東京大会、そして1年後の2016年5月の新潟大会の3回に渡って協議されていく課題である。「研究する組織としての学校のあり方」という副題が付けられた今回の内容。「教育の研究者は、学校現場でどのよう語っているのか」や「実践研究にいかに関与しているか」といった、僕たち教育研究者の現場や学生への対応そのものを問い直すものである。ともするとどこかで研究者こそ優位であり、現職教員の方々も、それを仰ぎ見る視点でしか対応せず、研究者が自己の枠内でしかないことを、現場実践に対して押し付ける傾向があるのは否めない。だがしかし、果たしてそれで現職教員や学生たちの学びになるのであろうか?という点に関しては、僕自身もこれまでに疑問視していたことである。
広島大学の難波博孝先生の基調報告では、「思想的研究=臨床的研究」といった立場が提示され、「事象→あたらな事象」 を発見し続ける研究者と実践者の、ある意味で相互対等な関係性について語られた。「政治の宣伝道具としての『教育改革』に批判することなく乗っかかる教育関係者」の姿勢を批判し、例えば「アクティブラーニング」などという宣伝文句には、既に国語科教育で実践されている「言語活動」が、空洞化して薄められてしまう危険なタームであるといった趣旨で賛同できないといった見解も示された。「リフレクションのためには無意識レベルにおりる」ことの重要性や、「U理論」の紹介、そして「学ばないことが、学ぶことには大事=手放すこと」という立場から、「プレゼンシング=今起こっていることを言語化」を通して「自分自身がどのように変革しているかを見つめて、自分の外部を書き込む実践研究論文」こそが有効であるといった実に明快な立場が提案された。
福岡教育大学教職大学院の若木常佳先生からは、「教師個々が、自己の内面と対面する必要」があることを前提に、「実践的知識を自身の内面にアクセスして解きほぐす(思考の癖。知識の偏り)反省するまなざし」こそが必要であるという。あくまで「自己の外側に向く授業研究」が必要であり、「他者の目を活用して気づく」といった「本人が適切なゲシュタルトを発達させるプロセス」の重要性が語られた。研究者が理論を翳し「こうしたらいいじゃない」と言ったところで、「同じことを押し付けても実践者は何も変わらない」という。「なぜそう考えたのか?」を問う「意味思考型」であるべきで、「行為思考型」に陥らない授業研究が求められるといった大変参考になる見解が示された。
大阪教育大学の木原俊行先生は、国語教育が専門ではないが、「教師の力量形成(カリキュラム開発・授業研究・教育の情報化)」の実情を記述する研究者である。「たくさんの地域の学校を訪問して自らの学びを形成している」という立場を明示された。「学校における実践研究の要件とは、創造性が尊重され失敗と再生(レジリエンス)を繰り返してこそ前進する」という。「学校全体の組織的営みとして、数年間に及ぶ継続的活動で学校内外に開かれており、研究的ネットワークを組んで紀要を羅針盤として活用する。」といった姿勢が求められるというあるべき方向性が示された。「校内研修と行政研修とのコラボレーション」などの試みによって、「多様な他者と適切に繋がっていく専門的な学習共同体(PLC)」が形成されるべきだという。例えば「事後協議会における教師たちの言動に注目し、事後協議会後にもあらためて考えるとこう考えられる」といった姿勢が必要であるという研究者と現職教員との関係性も明確に語った。
組織自体を変革するプロセス
漢方薬の如き体質改善
即効薬を渡した方が楽
自分と対面する身体
反省ではなく受容と共感
肯定の中から生まれる自己発見
沈黙の意味
学ぶこととは声に出して話す、そして自分がわかる
いくつかの質疑応答での言葉の断片を含めて、
学会シンポジウムの覚書として
お断りしておくが、あくまで基調報告の先生方の見解を「押し付けられ」たり「鵜呑みにしたり」しているわけではない。小欄に記述した内容は、あくまで僕の咀嚼を経ている自立していることを申し添えておく。それゆえに、各先生方の基調報告での発言には、御本人の意に沿わない内容記述もあろうかと思われる。だが、学会で学ぶということは、こうして自らが「声」として「記述」する必要がある。僕自身がこの内容を何度も更に外側に出て見つめられるや否やということ。
地域の教育に関わる責務を再認識すると同時に、
学び合う関係性の構築が実に楽しみになった。
現在のポストにいることをあらためて自己省察する機会でもあった。
姫路城の壮観な白色が夕陽に照り映えていた。
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