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「自分」を自分で「外側」から読む

2015-05-08
作品の「主題」などどこか彼方へ
されど「何でもあり」の学習じゃ
常に「自分」の「外側」を持つということ

複数担当大学院科目の順番が巡って来た。言語学的分析・批評を如何に国語教育に活かすかという点が、僕が担当する大きな目標だ。現職教員の方と、学部から直接進学の二様の学生が受講者である。現職の方々に聞くと、教材に対する考え方としては多様性を認め、読者論の立場からオープンエンドを保つこともあるという。だがその一方で、「何を教えたのか」といった批判を受けることもあるという。現場での「読み」の指導は、ある方向性がありながら、未だその捉え方が曖昧であることを知らされる。

根拠を持って論理的に矛盾なく、言語の一般的な要素を踏まえて妥当な解釈に漕ぎ着く。短絡的に「答え」が得られるわけではなく、その過程に混沌とした思考が存在する。その過程を通過することで思考力や想像力を育むことができ、他者と意見交換すれば表現力を養うことになる。そして他者と自己の違いに気付く契機となり、そこで初めて「自分」が何を思考したかを客観的に把握することができる。我々は「自分のことは自分が一番わかっている」という幻想を抱きがちだ。何事でもそうではなく、「自分」を他者からの視線に曝して反応を受け止めてこそ、初めて「自分」を「自分」であると把握できる。それだけに他者の言葉に繊細に耳を傾けることこそ、「知的」であるということなのだ。

「自分」で書いたこと、話したこと
それを自分が他者の立場になって検証できるか否か
自己分析・自己添削・自己把握できる力ー「自分」を自分で「外側」から読むということ。
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