「平和の鐘が鳴る」響くのは・・・
2015-04-23
「ここにいるのは私独りじゃない
過去と未来が
繋いだこの命」(サザンオールスターズ「平和の鐘が鳴る」より」
国語の教師として、「古典」をなぜ学ぶのかという生徒たちの疑問に対して、明確な答えを持つべきだと常々考えて来た。それは大学の学生たちに対しても同じで、年度始めの授業で「国語の嫌いな点」をアンケート調査すると、「古典が嫌いだった」という答えがかなり多くの学生たちの回答に見られる。「今は使用しない昔の言葉・文章なんかいらない(役に立たない)」という考えを如何に説得するかである。その際に僕はよく「君たちの命を考えてみよう」と問い掛ける。
「君には父と母がいて、その双方にもまた父(祖父)と母(祖母)がいて、そのまた・・・」と永遠に続いて行く。もちろん時代が変われば人も変わるのだが、過去の命があってこそ今現在「ここにいるのは」と自覚できる己が存在できる。そしてまた同じ図式で、未来へ命を繋ぐ。その個々の「ここにいる」人々が、言語を使用しその文化を継承して来たのだ。だから「古典」を学ぶのは、「今の自分」の存在する意味を学ぶことなのである。概ね、このような説明を試みるのである。
この「古典」は、そのまま「平和」に置き換えられるのではないだろうか。どんなに欲に眼が眩んだ人間でも、「平和」を願わない者はいないはずだ(と性善説を考えたい)。むしろこう言った方が適切だろうか、自分だけの「平和」を願うからこそ、戦乱に陥るという矛盾があるのかもしれない。自己の弱さを護るがために、武力を誇示するという保身な発想が「平和」の均衡を崩すのである。記憶ができるからこそ忘却もする人間という動物は、「平和」が「いまここ」にあると、その価値の重要性が過去からの蓄積により構築されていることを愚かにも忘れ去ってしまう。過去には「平和」を願いたくても願えない時代があり、訴えられない悲痛を味わいながら生きていた人々がいる。それは僕たちにとって決して他者なのではなく、僕たちのDNAの中に確実に引き継がれている筈なのだ。それゆえに過去の反省を、忘れることなく引き継ぐ必要があり、そのためにも「ことば」を絶やさずに語ることが求められるのである。
戦後70年
消えない過去に向き合うのは「繋いだこの命」を考えること
サザンの曲が柔らかくも声高に「平和」を希求してくれているのであるが・・・
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