「けれどもそれもうそかしら。」認識と世の中
2015-02-27
「海は青いとおもってた。かもめは白いとおもってた。
だのに、今見る、この海も
かもめの翅も、ねずみ色。」
(金子みすゞ「海とかもめ」より)
再び金子みすゞの詩から。僕たちは概ね、世間で通例となっていることを信じて生きている。空は青く、太陽は赤く、雲は白い等々・・・・。だがしかし、果たしてそうなのであろうか?こうした自然の色彩の捉え方にしても、個々の人間の認識からその「公約数」的な部分を採取して、典型化し誇張して表現しているということだろう。ゆえに実際よくよく見てみると「海」も「かもめ」も「ねずみ色」だとみすゞの詩は語り掛ける。自分ではこうだと思い込んでいることに、実は「うそ」があるということだ。
あくまで個々人が自分の世界観から推測して認識を決める。その個々人とは人間に限らない。動物や昆虫や植物など命あるものをはじめ、この地球や宇宙といった大きな範囲において、それぞれの立場の認識があるはずだ。それを特に人間という動物は、一個体の自分に都合のよいように改変して、「わかった」ような気になっているのではないか。範囲を縮小し身の回りにいる人々などはどうだろう。理想的典型的な像で捉えていても、その内実は「うそ」で塗り固められているのかもしれない。ゆえに時には自分自身の「認識」を疑ってみる必要もある。「こういう人だ」という認識に凝り固まっていると、現実との落差による怒りや哀しみで苦痛が増幅するばかり。他者への認識も「青」や「白」だと認識していると、実は「ねずみ色」な場合があるということだ。
それでは何事も疑い深ければいいのだろうか、といえばそうではないだろう。卒業ソングとして著名な海援隊『贈る言葉』に「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つく方がいい。」という一節がある。確かに「人情」こそ貴重で、まずは「信頼」することが何よりも重要であるともいえる。この曲が流行した80年代初頭には、そんな「人情」と「信頼」がまだ世間の至るところに見えた。だが今の世相はどうだろうか?僕たちは「青」色の信号機を見て「安全」だと確信して道路を渡れる世の中に生きて来た。海外に行くと痛感するのは、多くの国の人々がその「青」を信じていないということだ。その”公共機械”が示す「ルール」よりも、自分の眼で物事を認識して、「車が来ないで安全である。」と確認して道路を渡る。最近でも日本においては、スマホを操作しながら信号待ちをし、他者が渡り始めるとそれにつられて横断し始める輩を見掛ける。時代は変わってしまったのだ。「安全」は自分自身で確かめなければなるまい。決して「青」が「安全」を保証しているわけではないと最近殊に思う。
「みな知ってると思ってた、
だけどもそれはうそでした。」
(金子みすゞ「海とかもめ」より)
弱者にも常に優しい眼差を向ける金子みすゞの詩
それは自己の認識を疑うゆえの優しさなのだろう
これからの時代、更に深刻にこうした見方が求められている気がしてならない。
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