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まさか「最後の一杯」をいただくとは・・・

2015-02-17
いつものようにいつものうどん
美味しく食べ終えて知らされた真実
それが「最後の一杯」であるとは・・・

小欄今月13日付記事に「うどん屋」のことを記した。馴染みの2軒を生活の中に配し、健康管理の意味でも大変重宝していた。月曜日は、8時台からジムのスタジオで有酸素系トレーニングがあるので、昼食に比較的しっかりしたものを食べて、夕食はうどん屋に向かうのを通例としていた。この日もその通りにうどん屋の暖簾をくぐり、「いも天うどん」注文した。食べ終わった頃になると、店の奥さんが外に出て暖簾を外した。「昼食時に繁盛して材料でも切らしたのか」などと僕は推測し、丼の中の汁を味わっていた。

会計時になってレジまで行くと、無口な奥さんが「あの〜」といたいけな表情で僕の左袖を掴むようにして語り始めた。「うち、もう辞めるんです。二人とももう体力の限界で・・・」あまりに急なので、僕は何を言われているのかわからず、妙な笑顔で対応してしまった。数秒してから、さきほど食べたうどんが、僕にとっても店にとっても「最後の一杯」であったことを理解した。どうやら材料を使い切って、この時点で閉店ということらしかった。僕の中の生活の一部が、音もなく崩れてしまったような、誠に残念な気持ちで店を出て車に乗り込んだ。

出汁へのこだわりや材料の仕入れに仕込み。麺も自家製手打ち。丼物やおにぎりの御飯等々・・・その仕込みから営業までの過程は素人の僕には、あくまで想像の域でしかない。出汁の絶妙な味と香り、天ぷら材料の一つ一つが、誠に吟味され手間ひま掛けたことを思わせる。決して大手企業チェーンのうどん店では出会うことはない、繊細な味わいである。ご本人たちの「理由」を尊重せねばならないと思いつつも、こうした職人気質な自営業による食文化が、なぜ悠々と日常を護れないものかという、社会への憤りが心の中に湧き上がった。そういえば消費増税以後、この店でも「材料の高騰により値上げ」を謝罪するかのような文面の手書き貼紙が眼に止まったのを鮮明に記憶している。世俗にまみれても美食を求めたい。常に眼前の「一杯」が「最後」かもしれないという、刹那な無常を痛切に感じる世の中になってしまったのだ。

地方の小さな街の偉大な食文化
これこそ、この国が築いて来た無数の星のような宝なのではないのか
「最後の一杯」の味わいに、この国の将来への暗澹たる不安ばかりが浮上してきた。

追い打ちをかけるかのように
車内のラジオが、あの抑揚のない声で「高級腕時計売上好調」と
GDPのからくりと二極化の象徴のようなニュースを伝えていた。
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