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「読み聞かせ」独り歩き・・・

2015-02-03
絵本「読み聞かせ」などと
一般で通行している言葉であるが
どうも「聞かせ」という語感がいただけない・・・

絵本を「読み」それを「聞かせる」ので、組み合わせれば「読み聞かせ」となる。だが絵本は「聴く」側が想像力(解釈力)を最大限に発揮してこそ、「意味」が生じる。幼児を対象とした際には、「解釈」などには程遠いと考えるのは”大人の傲慢”である。「読まれた声」と「絵」という情報を以てして、自分をそこに投影してこそ絵本が楽しめる。言葉がまだ理解できない乳幼児でさえも、本能的にそのような反応を繰り返している筈である。それゆえに「聞かせ」という語感が持つ、「強制的・抑圧的に教訓を施してやる」といった感覚は、実態とは乖離していると考えられる。それだけに、「読み聞かせ」あらため「読み語り」としてはどうかと、昨年来提唱しているのだが・・・。

言葉はひとたび世界に放たれると、独り歩きを始める。言葉を発した本人はそういう意図は持っていないと後から弁明してみても、要は受け取る側の解釈によって、微細なところから齟齬が生じる。その齟齬に受け取る側の「意図」が加われば更に大きな変化となり、「解釈」する側の意志によって利用されてしまう危うさがある。それはどんなに綺麗ごとの大義名分を翳しても、いやむしろ綺麗ごとであればあるほど、齟齬の幅は拡大する。世に、言葉にならない感情となることも多々ある。それをどのような語彙で、どう表現すればいいのか混沌とする。「怒り」が生じた際、短絡的に対象を罵倒したり悪口を言えば、発言者の刹那な精神安定には貢献するかもしれない。だがしかし、その敵対意識を以てして、問題の根本的な解決にはまったく至らないことを悟るべきだろう。そこで混沌とした感情のうちに、最善の方向性を模索することを、「知性」と呼ぶのではないだろうか。「読み聞かせ」ならまだしも、「償わせる」という語感は、いっときの強権的虚飾であり、むしろ敵対を強め我々の危険を増幅するように解釈されてならない。

言葉には思考が潜む
それを「国語」で学んで来た筈だ
独り歩きに対して、知性が良心的に作用するとは決して限らない世の中になってしまった。
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