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和合亮一さんとの邂逅

2015-02-02
読もうと思わずに読み語り
聞かせようと思わずに聞いてもらう
力まず正解を探さずに力動を生きる

詩人の和合亮一さんに講演会でお会いする機会を前に、『ユリイカ』臨時増刊号(14年6月)「吉野弘の世界」を読み直してみた。今年度、附属中学校で僕が担当した共同研究授業で教材開発して以来、教材としての「吉野弘」に惹かれていたゆえである。すると、当該雑誌のある頁の吉野弘自らの筆跡で書かれた三行の言葉が、妙に心に響いて来た。果たして、和合亮一さんとの邂逅を経たのちに、冒頭のような三行が僕の脳裏に渦巻いた。3.11以後にTwitterで展開された和合さんの詩を読んでいた、あの日々の僕と、向こう10年以上に渡り朗読を追い続けて来た僕が、和合亮一さんという人間を介して、繋がったような思いを抱いた。

「誰かと一緒に繋がりながら創る=現場」という考え方に、和合さんの詩作と国語教師として日々生徒に向き合う姿勢が、強く感じられた。特に今回の講演会は、「朗読」に引きつけて和合さんは語ってくれた。大学時代に詩作のプリントを朝のキャンパスで配布したが、それが教室で捨てられていたり、朗読会を実施した際に、知らぬ間に観客が減ってしまい2名となっていたというエピソードの紹介。「悔しさから何かを始める」ことが多いという言葉に、僕自身もどこか自分を重ね合わせた。学部時代の研究会で、無知ゆえに同級生に笑われたり、研究発表を尽く否定されたりした経験から、現職国語教員であった僕も研究への道に帰って来た。創作と研究という分野の違いはあれ、和合さんの生き方に共感する部分を多く持ち得たのはこうした理由である。

更に朗読への考え方も興味深かった。「朗読に不可能はない」と可能性を極限まで見つめ、「お客さんとの呼吸を大切にする」「間と間に風を入れる」といった発想は、僕も常々考えていたことでもあった。その「間」には「呼吸」が密接に関係する。「呼吸(呼ぶ吸う)」は、吐くことを意識すればよく(吸うには集中しない)、例えば震災に関する詩を読めば、それは亡くなった方を「呼び」続けることになり、呼ぶために息を吸う、そして自然に吸うときに間ができる。朗読を聞いている人が聴いているのは間であり、朗読者は間と闘う。そして静けさと闘い、静けさを呼吸から創る。レクイエムの文化が日本には乏しいと和合さんは指摘するが、それを自らの詩作と朗読によってライブを実現することで、掛け替えのない形にしている。

講演では、和合さん自らの詩のみならず、小学校1年生「魔法の津波」や小学校3年生「たびしい」などの創作詩も披露された。詩を書くとか朗読に「正しい」はなく、「言葉の芯を受け止めてあげることが大切だ」という。そして、「君の詩が多くの人の寂しさを癒す」ことを教師として伝える。こうした関係性を、和合さんは「力動(りきどう)」すると呼ぶ。「歯車と歯車が噛み合う瞬間に何かが生まれる」という。人が一つずつ持っている尊いその瞬間を模索し、詩作をし朗読し、そしてまた国語教師として言葉を育てる。「力動」していれば正しさはどこかへ行ってしまうというのである。国語教育を研究している僕としては、どこかで何かに囚われて身動きが取れないことがある。それを和合さんとの「力動」が、見事に解放してくれたように感じた。

また、「聞くことこそ朗読」の言葉にも国語教育で考えるべき要素があった。「声と文字は水と油」であり、声にして届けるときは自ら改作する場合もあるという。その朗読を繰り返すのは、文字と声の間に無限に眠るものを掘り起こさんとするためである。「言葉は時間の長短を調節する」もので「時間の楽譜」の如きものだという。「朗読しているときは時間を逆回しすること」であり、「時間の規則性を壊したい」という願望も語られた。詩作とは、「言葉にならないものを言葉で書くしかない」のであり、限りなく「調べを追いかけ、それに纏わり付いた言葉を集める」ものだ。実は国語教育で標榜されている「言語活動」とは、こんな点にこだわってこそ活性化するのではないだろうか。

また3月に向かう感じから、肌で覚えているのは「本質的な孤独」
あの日から、僕自身が歩いた道に今一度迷い込んでみたくなる
和合亮一さんとの邂逅から、「力動」による何かが確実に僕の中で起動した。

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