人文科学の「複数性」こそが窮地を救う
2015-01-25
「立ち位置(ポジション)の多様性」「視点(パースペクティヴ)の多様性」
(アンナ・アーレント『人間の条件』1958 より)
研究学会に出席する。その意味は何か?と自問自答する。東京在住時は、移動手段に何ら負担のない環境であったゆえ、そうした自問そのものを怠っていた気がする。むしろ中高現職教員として、こうした場に足を運んでいるという聊かの自負と矛盾に満ちた気持ちで、混沌とした状態が続いていた。それが今や懇親会でスピーチに指名される場面でも、「本日、一番遠くから来た方」といった部類で紹介される。もちろん「比較文学」という学会の性質からして、隣国から出席(留学も含めて)している方々もいるわけで、学問とは距離ではないということを再認識する機会となる。特に留学生の流暢な日本語による緻密な発表を聞けば、母国語研究者として、更に奮起すべきと意欲を新たにする。
学問とは、ものごとをより緻密に深淵まで見つめることであろう。ただ「緻密」「深淵まで」だけでは自己満足に陥る危険性もある。鷲田清一『哲学の使い方』(2014岩波新書)を読了したが、そこに示された哲学の生きる道は、人文科学全般に敷衍して考えるべき示唆が豊富だ。「よく見るためには多くの目をもつことが必要だ。他の視線との摺りあわせをするなかで、複数の目でものを見られるようになること、そのことでまなざしが立体化し、押し拡げることが重要だ。」(p188)といった指摘ののちに、冒頭に記した引用が示される。いわば「複数性」を確保せよということである。まさに比較文学とは、こうした発想による研究方法である。
「人文科学」とは、まさに「人」と「文」との関係性を論理的に追究するものであろう。成果・効率主義の世情は、どうやらその重要性を捕捉する眼が持てないようである。「結果」「正解」など簡単には導けないのが、「市民」の考えるべき人の世の常である。胸に手を当てて「あなたの人生の正解は何か?」と考えてみるがいい。決して「正解」など得られないはずだ。もし「正解」があると思い込む輩がいるとしたら、それは限りない自己欺瞞に他ならない。よって「未整理の過去と手さぐりの未来との間に点描でしか描けない現在がある。」(鷲田前掲書p206)ことに身を浸すしかないのである。そのためにも、「かなりの肺活量と集中力が要る。」(鷲田前掲書p240)ことになろう。いま世情が、この「肺活量と集中力」を軽視し、その必要性に眼が向かなくなっている。このことは明らかに、社会や国家という枠組に脆弱性をもたらす。「複数性」のない単眼的な言葉は、誠にもって頼りない。
熟慮なき単眼的「非難」
「暴挙」「卑劣」と呼べば解決になるのか。
人文科学的な「複数性」の発想こそが窮地を救うはずなのだが・・・。
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