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空間に放たれる「音」と「声」は違う

2015-01-19
読書にBGMは心地よい
だが「おしゃべり」だと阻害されることもある
公共空間の音と声を考える

ある空間に比較的長時間待機する。全員が大学教員ということもあって、至って静寂な雰囲気が漂う。PCのキーボードを叩く音・マウスのクリック音の他は、殆ど音のしない空間であった。(時折、聊かの飲食音がすることもある。)僕自身を含めて、「思索」をする術をしっている集団なのだと、その空間の状況を客観視した。だがその雰囲気を一番破るのが、複数人以上の会話である。やや抑え気味の声ではあるが、書物にある文章の余白に耽溺した「思考」を、根底から覆すものだと感じる一幕であった。

東京で懇意にしているCafeで、よくお店の雰囲気にオーナーが気を遣っていた。過剰な大勢での会話、ましてや携帯での通話には、必ず注意を促していた。軽やかなBGMならばむしろ「思索」を昂進させる効用さえあるが、なぜ人は人の声に特別な”聞く耳”を持ってしまうのであろうか。元来、人の声というのは、他者に語り掛け伝達するという性質を本能的に持っているのではないかと思う。端的に述べるならば、BGMと話し声では、脳内で反応する場所が違うのである。ましてや個人で「思索」に耽っている場合、文意の余白を「読む」という作用が働いている。そこに音ではなく声が現れると心に混乱を来す。

「国語」の授業で、どんなに名優の上手な朗読であっても、子どもたちに音源(DVD・CD)で聞かせると、殆ど心に響くことはない。それは朗読の「伝える声」ではなく、あくまで「音」に過ぎないからだ。ゆえに文学作品の内容に対して思索するという作用にならず、むしろ睡眠を誘発する場合が殆どである。名優の朗読でなくとも、眼前の人間の生きた伝わる声によって初めて子どもたちは文学作品の偉大さに気付く。それほどに「生の声」は人の心に染み入る力を持っている。翻って考えると、公共の場での会話でありながら一方の者の喋る声しか聞こえてこないという性質の携帯通話は、甚だ周囲の者に迷惑である。まだ其処に居る者同士の会話なら、問題はない。なぜだか電話というのは、相手が遠くにいるという心性がそうさせるのか、その場に適さない過剰な音量の声で、「遠くまで届け」という気持ちが上乗せされているから尚更である。

携帯の存在は様々な状況に変革をもたらした
それに無自覚で使えば人間の本能的な心性を浸食する
空間の使い方に現代社会の生き方が垣間見える。

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