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風と朝の日光を愛そう!

2015-01-03
「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、
 きれいにすきとおった風をたべ、
 桃色のうつくしい朝の日光をのむことができます。」
(『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』序より)

今年の「読み初め」をどうしようかと考え、研究室から何冊かの文庫を自宅へ持ち帰っていた。その中から今年の「気分」に一番合致するのもと思い、迷わず宮沢賢治『注文の多い料理店』を取り出した。先に記したのはその「序」冒頭であるが、以前にはあまり気にも止めなかった「風をたべ」「朝の日光をのむ」の一節が妙にこころに響いて来た。「氷砂糖」とは、ヒトが人工的に作製した「美味しいもの」の象徴であろう。それを「ほしいくらいもたないでも」、つまり人間的傲慢な欲望を捨て去れば、「美味しいもの」は自然の中に豊かに存在するという自然回帰の思想に、妙に惹かれるものがあった。

小学校教科書教材にも採択されている『注文の多い料理店』。人間的欲望に駆り立てられた「紳士」たちが、狩猟に出て獲物も得られずに損得勘定を口にして、空腹をこらえ切れなくなった際に出会った「山猫軒」という西洋料理店。その店に入ると様々な色の文字で、様々なメッセージが書き付けられているが、その各々を「紳士」たちは恣意的に解釈しつつも従いながら、店内の奥へと歩を進める。ところがその結末には、とてつもない「反転」があることに、ようやく気付くという物語である。

ここであらためて注目したいのは、この人間的欲望丸出しの存在が「紳士」と表現されているということだ。特段甚だしく傲慢な「人間」ではない、と読んでいいのだろうか。「イギリスの兵隊のかたちをして、ピカピカする鉄砲をかついで、」と描写されている「二人の若い紳士」は、「自然」とは対照的な「都会」を背負った存在とも解せよう。終末の一節で、「東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりにはなりませんでした。」とあることでそれは明らかになる。「紳士」たちは、「山猫軒」での経験によって「さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔」から「もとのとおり」にはならないというのが、この童話の「おわりのはじまり」ということになるだろう。人間的欲望にまみれてそれを露呈し自然の洗礼を受けると、人は「紙くず」のような顔になってしまう。それはどこか、都会の交通機関車内で、スマホに没入する人々の顰めっ面に、同類のものを感じ得ないであろうか。

我々が「当然」と思うことが既に傲慢なのである。
「自然」だけが「すきとおったほんとうのたべもの」なのだ。
風と朝の光を愛すれば鳥たちと会話ができる、今の僕はそんな心境である。
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