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授業が日常を超えるとき

2014-12-27
「アートが誘う非日常世界」
こんな副題で「芸術家の知を生かした教育」を語る
授業は日常を超えられるのか?

今年度かかわってきたプロジェクトの報告会シンポジウムが開催された。僕は「演劇(国語)」担当であるが、他にも「ダンス(体育)」と「音楽(声楽)」で展開された「授業」が、映像を駆使して報告された。ダンスでは、自由自在に身体で表現を展開する子どもたちの個々の多様な表情が印象的であった。音楽(声楽家)では、「芯のある声」に導き「声を張る」という比喩的動作を仕掛けると、子どもたちが歌う合唱の高音に豊かな伸びが現れた。いずれもいずれも、日常の学校空間には存在しない超越的魅力をもった芸術家が授業に参入し、子どもたちを一時「夢」の世界に誘うことで、その能力に火を点けるといった展開であった。

この報告会には様々な分野の方々に参加していただいたので、疑問もまた提出された。学校現場は「授業」の上で、どのように位置付けたらよいのか?芸術家と出逢った後に、子どもたちにはどんな力が身に付くのか?あくまで「授業」だとすると、その評価はどのようにしたらよいか?学校と文化施設と大学や行政が、どのように連携してこの事業を展開したらよいか?等々と、多様な議論からあらためて実施の意義を問い直した。このように考えて来ると、いったい「授業」とは何であろうか?といった根源的な疑問に到達する。敷衍して、子どもたちは成長過程で何を身に付けたらよいのか?そして、どれほどの邂逅があれば「生きる力」は身に付くというのか?

「授業」には、技術的に学力を積み上げる戦略と過程が必要なのは自明である。そこを外さないからこそ、学力水準を高く維持することが可能になる。あくまで「授業」とは、「基礎的・基本的な知識技能を育む」ということである。だがしかし、それだけに偏重していては、決して「豊かな教育」と言えないのではないだろうか。同時に「情操」面や「社会的コミュニケーション」を育んでこそ、均衡のとれた成長を促す教育になるはずだ。こうした意味で芸術鑑賞は重要な訳だが、従来は劇場などの校外において受身で観るのみという場合が殆どであった。もちろん、学校外の異空間に足を踏み入れる体験も必要であろう。だが、その異空間性が子どもたちの現実と甚だ乖離し過ぎていると、あくまで自分たちとは「別世界」の人々が、「別次元」のパフォーマンスを見せるという、やや冷めた受け止め方にもなりかねない。僕の現場経験からしても、子どもたちが能動的に芸術に出逢った、ということへの期待よりも、静かに公演を聞いて欲しいという、消極的な面への不安の方が、遥かに大きな教員としての心の持ち様であった。

「学校」には、子どもたちの「日常」がある。「教室」「体育館」という慣れた場所に、圧倒的な表現をもった芸術家が訪れる。見慣れた黒板・床の板目・チャイムの音等々が存在する空間において、甚だギャップのある超越的存在が現れる。今まで見たこともない身体の動き、決して耳にしたことのない声の張り、絵本世界そのものを眼前に起ち上げる声、古典的人情味溢れる対話のことば、などの「非日常性」が「侵入」して来るからこそ、子どもたちは恐れることなく「境界領域」を超えるのではないだろうか。そこに十人十色の享受があり、魅せられた子どもたち自身が自由に創造的表現をしてこそ、初めて「鑑賞した」ということになるのではないだろうか。その経験によって彼ら自身の欲望で、いつかは劇場へ寄席へ行こうという心が起動することが肝要であるのではないか。

子どもたちの豊かな笑顔
「勉」めて「強」いるを超越すること
僕の大好きな「文学」を再生するためにも。
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