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「日本より頭の中の方が広く」ありたい

2014-12-16
「他の人が自分よりも賢いかもしれないと考える心の準備」(元英首相・アトリー)
「みんな」と「同じ」を求めて、できるならば「ちょっと上」がいい。
民意・大衆を作り出すものとは?

90分の授業中に、いくつかの問いを学生に課す。3分程度の個人思考で記述させ、何人かに発表をしてもらう。例えば昨日も実践したのが、全員が高等学校教材として学んだ筈の『羅生門』の要約文を、20字程度で記述するといった課題である。3分間で「思考→記述」する学生たちの様子を観察していると、どうやら「正解」を求めているような表情や姿態を窺えることが多い。そこですかさず一言添える。「このあとどうせ「正解」が出されると思って、それを待ってはいけない。いま思考し記述する「あなた」が何より大切なのである。この問いには、唯一無二の「正解」があるわけではない。各自の「(小説の)読み方」はすべて「違う」のだから、自分しかできない記述を書けばいい。」と・・・。

中高と学習を重ねて来ると、「正解」が求められ、優等生ほど「間違ってはいけない」という強迫観念に襲われているようだ。「この小説から読み取れること。」は、唯一の「正解」選択肢を選ぶという習慣が身に付き、多様な思考とは真逆の一局収斂的発想となる。国語教育研究では、こうした「正解主義」の誤謬は修正すべきという考え方がこの20年ぐらいのうちに波及し、多くの研究者が多様な思考や想像力を開拓する学習実践を開発し提案してきている筈だ。だがしかし、今も尚「学校」というシステムは、前述のような「正解到達主義」な発想で、「みんな」と同じ「正解」を求めようとする発想の学生を育ててしまっている。「正解」を待ち、自分が「違う」ことを恐れ、「個人思考」よりも〈教室〉という「大衆」の中で、本来は適切ではなくとも、多くの者が選択する「空気」によって作られた「正解」を、自らも違わずに「選択」したということが何より重視される。自己の内部では「違う」と思いつつも、「異質」な者になることを避け、「みんな」に従う妥協点で、「己」の「思考」を捨象するということである。

少なくとも「大学」という場では、この悪弊を確実に誤謬であると気づかせねばなるまい。中高では出せなかった「自己」の思考を表現し他と交流し、「違う」ということを発見する機会を多く設けるべきだと考えている。特に教員養成を旨とする学部で教壇に立つ僕にとって、この使命は大変重要である。この学生たちが、将来は子どもたちの多様な思考を育てる立場になるのであるから、この優等生こそが迷い込む罠から、確実に解放しておかなばならないだろう。〈教室〉では、「われわれ」になる必要はなく、他とは違う「己(おのれ)」こそが貴重であるという固執しない柔軟な思考を身につけてもらいたいと考えて、僕は日々授業に臨んでいる。

「われわれ」の意識は、「彼ら」を排除するために悪用される。
「他の人が自分よりも賢いかもしれない」と認識してこそ、初めて「大人」なのである。
『三四郎』(広田先生)「日本より頭の中の方が広い。」
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