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予想・現実・希望・・・「どうせ」はどちらに傾くか

2014-12-15
どんな予想であろうとも自分の意見は言う
どんな現実であろうとも自分の生き方を貫く
そして、希望を見出そうとすれば自ずとそこが道になる。

「どうせ言っても(行っても)同じだから・・・」昨今、巷間はあまりにもこんな空気に支配されていないだろうか?既に確定的「予想」が立っており、それが「現実」と概ね、いや寸分の狂いもないだろうから、「(意見を)言う」とか「(権利行使のために)行く」という行動をとらないという状況である。その「予想」はメディアが巧みに調査した結果である場合も多く、それだけに信憑性があるかないかは、個人の判断に委ねられるはずなのだが、尤もらしいと他人事として捉えれば行動が鈍る。ましてや己で「予想」が立っている、と判断している場合に、「同じだから」と行動に及ばないのは、尚更、自己をどこかに放置する原因になるのではないか考えてしまう。

1日中、こんな思考を様々な局面から続けていた気がする。この国に生きる「市民」として、どう行動するか。この日の動向が、10年後の未来をどう左右するのだろうか?「歴史」は後になってこそようやく「分かる」のだが、あくまでそれは日々起こることの積み重ねが構築している。だが、「歴史」という形になるまでの過程を、どれほど可視化するかは大変難しいのかもしれない。だがしかし、そこに批評的思考をもって対応し見出そうとしてこそ、「知性」ある言動ということになろう。少なくとも、この国の「知性」の一角を担う位置にいると自負できる立場である人間であればこそ、この「思考」を決して忘れてはならない筈だ。

「どうせ」”言わない人”が全体の半数近くに及んだ。この二極化も直近15年来で、垣間見られ作られて来た構造なのかもしれない。もちろん、権利を行使し「言った」人も、「言わない」人にも平等に「現実」が訪れることになるだろう。その「現実」がどのようなものであるかという「予想」はまた人それぞれ様々であろう。いやそれでいいのだ、多様であるはずの「言った」ことを一塊に視ようとする”意図”の方が危うい。その意図の中であっても、「市民」としてあの紙一枚に鉛筆で記述するわずかな文字に、「言う」という尊い行動を託すことを決して諦めてはいけないのではないのだろうか。学生を含めて「言わない」風潮がある。後になってでは遅いのだ。「予想」に違和感を覚えた時、「現実」に「危惧」を覚えた時、「市民」として「言う」ということを今一度見直すべきではないだろうか。「どうせ・・・」は、「生まれたからにゃ 命の限り」において「希望」を発見しようと「行動」することである。

寒い宵の内、外に出て星空を眺めた
次第に眼が慣れて満天の星が見え始める
(作られた明るさの中で、僕たちは星を視ることを忘れていた。)
彗を長く引く流れ星が見えた・・・「希望」とは視ようと「行動」することである。

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