うちな〜んちゅの言葉を聞く
2014-12-07
「やまとんちゅが各県で引き受ければわかるさ」と「うちな〜んちゅ」の杖をついた老人が語り始めた
この上なく閑かで穏やかな波が寄せる砂浜で・・・
打ち上げられた老木が、砂浜に横たわる。波に揉まれ削られながらも、堂々たる存在感がある。貝殻も多数散らばり、透明度の高い澄んだ海水が寄せては返しそこに潤いを与えている。沖には珊瑚環礁があるのだろう、遠浅な海面が暫く続く。この海岸線に独特な海藻が繁茂するらしく、そこには稀少な生物・ジュゴンが棲息するという。この限りなく「平和」に見える美しい海の名を、今や多くの人々が知るようになった。日常は漁港で、どれほどの生活が営まれているのだろうか。その地は「辺野古」と呼ばれている。
沖縄の今を知るには此の地を見ずして、という思いに駆り立てられ、那覇から車で約1時間半、北東の地に赴いた。なぜ、この地に基地が作られようとしているのか。それで市街地にある普天間基地は本当に移設されるのか。沖縄に駐留する米軍編成において、必要な施設であるのか。翻って、この基地は日本・アジアの平和を維持するのに不可欠か。自分なりの考えを持つには、多様な側面からの意見を否定せずに聞く必要があるだろう。その上で、一つ一つに「なぜ」の問いを持つべきである。少なくとも、沖縄の人々は先の知事選挙で、この地に基地を作ることには反対の民意を顕著に示しているのであるが。
単線的な発想で考えられる問題ではない。だがしかし、少なくとも沖縄に暮らす人々の立場になって考えるということが必要だろう。「本土」という語彙が示すように、歴史的にも此の地への負担・犠牲を「やまとんちゅ」が押し付け、今も尚それは継続し加重されようともしている。そこに「うちな〜んちゅ」の人々が、「オール沖縄」として考えよう、という力にも繋がる因果があるのだろう。冒頭に掲げた海岸での老人の言葉は、そんな思いを重厚に載せていたと、僕の耳には伝わって来た。本当の意味で、当事者意識を持つとはどういうことか。今の僕では、あまりに未熟でまだその問いに答えられない。
最後に、覚書として次の引用を掲載しておく。
高橋哲哉著 『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)より
「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他の者(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされる者の犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている。」
「一つになる」とは本来、「多様な立場を受け容れる」ことだ。
「受け容れる」際に必要なのが、当事者意識であろう。
僕たち一人一人が、利益追求の身勝手をしてはいないか、と自問自答してみる。
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