表現者の意図に迫ることから
2014-11-02
文字情報をどう解釈するか創作者と同等の視点を目指して
わかろうとする過程にこそ重要な意味がある
今年度公開講座第6回目、ここから2回連続(次回12月13日)で『平家物語』を扱う。琵琶法師の語りから成立したこの軍記物を、どのように朗読によって味わいを深めるか。元来が「語り」であることから、これまでにも多くの朗読や群読の実践が、演劇界や学校現場で行われて来た。場面が比較的容易に想像し易いという理由から。今回は壇ノ浦合戦の場面を描いた「能登殿最期」を扱った。
前半は、僕の朗読に付して聊かの解説に質問を受けながら進行。後半は4名ずつの班に分かれて、群読を構成してもらった。約40分ほどの時間内であったが、受講者の方々たちは相互に発表できる群読を見事に創り出した。『平家物語』が創作された意図は「鎮魂」である。九州地区には「落人」伝承のある地域も多い。そんな環境の身近さも相俟って、受講者の読む声に作品表現者の意図に迫るものが感じられた。
公開講座を終えて街に出た。先週開催の鼎談でお世話になった伊藤一彦先生からお誘いを受けて、「心の花」歌会に参加する為である。大学学部時代には佐佐木幸綱先生にあれこれとお世話になったという恵まれた環境にいながら、なかなか短歌創作へ”本気で”眼を拓くことはなかった。むしろ古典和歌研究には、自分なりの歩みをして来た。「創作表現者の意図に迫る」という意味では、歌会で詠草を評して行くことも同じ。創作者同士が行う多様な捉え方に接して、そこに生じる反応の差を認識することそのものに、深い興味を覚えた。
題材の捉え方、語彙選び、韻律上の妙、上下(かみしも)句の配置等々、より多くの人々に受け容れられる表現とは、どこに照準があるのだろう。創り手の立場を意識したつもりでも、どうも他者視点から評してしまう己がいて、聊かたどたどしい発言もしてしまう。その読みの甘さの不甲斐なさを受け止めるところに、むしろ逆説的に創作意欲も湧き上がるような感情をもった。その上で、まずは創作者の方々の感性の輪に入ることが重要であると感じた。語学とは決して同列に扱えないのは承知の上だが、当該の環境に身を置き己の理解表現を撹拌してこそ、新たなる反応が始まるものである。
「国語」授業で、「表現の意図を読む」とは何か?
正解なき撹拌・混沌の中から各自が何かを掬い捕る、朗読も短歌創作も。
様々な思いが交錯する中で、殻に閉じ籠らない己の姿を見つめている。
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