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原稿を読む声はどうあるべきか?

2014-09-08
「抑揚をつけずに
 一字一句正確に
 滑舌に注意して読むのです。」

再び「花子とアン」の話題から。花子が「子どもの時間」を担当していたラジオ局で、名物アナと言われた有馬という男が、原稿を読む際の注意として常に口にするのが、冒頭に示した要点である。そして「決して感情を込めたり、抑揚をつけてはなりません。」と冷徹に語り続けていた。当初は花子に対する皮肉の込められた警句と映っていたが、それを執拗に繰り返していた演出の意味がようやく明らかになった。

1941年12月8日、日本は決して引き返すことの出来ない、誤りの渦中に自ら飛び込んだ。いや、「戦争をしたい」人々が煽動し権力を集中し、そこに突き進んだと言う方が適切かもしれない。それゆえに、「政府と国民が一つになり」という考え方を喧伝し波及させて浸透させる必要があった。こうした動きに放送を始めとする報道機関までもが加担してしまった。もとより報道は、権力集中を監視し、少数意見を吸い上げて世相に反映し、誤った道に踏み込まないことが存在意義であるにも関わらず。

絶対視された「大本営発表」たる放送が、アナウンサーではなく権力者によって行われる。「雄叫びのように、一方的に押し付けるような口調」が、公共電波を使用して拡散させられる。それを聞いた有馬アナは、「日本の放送が変わってしまう」と涙ながらに嘆く。そう!原稿を読む際に、「大きな声で、雄叫びのように」他者にその考え方を押し付けるが如き読み方というものが、いかに野蛮で知性に欠けるものであるかを、あらためて感じた。有馬アナの信条には、ある大きな意味があった。

「音読」や「読み聞かせ」の際に、「感情を込めずに淡々と」と指導されることがある。お話の内容を聞き手に「押し付けない」ためである。これが、前述したような戦時中の状況への反省から生じたことは、容易に想像できる。その割には、〈教室〉での「音読」指導において、「大きな声で」とか「背筋を伸ばして」などという「言葉」が横行していることとは、どこか矛盾を感じざるを得ない。「音読」は何の思考もなく、元気に読めばいいというものではない。読む対象となる「作品(原稿)」の立場を理解し、そこにかけがえのない「自己」を起ち上げて、私個人はこのように「読み」ましたという、多様性ある思考を表現するものであると考えたい。時折、〈教室〉で「大きな声で、雄叫びのように」、ましてやそんな読み方で、平安朝文学『枕草子』などを読む光景に出会うと、何とも矛盾と誤謬に満ちた指導が現在も横行している、やるせなさに駆られる僕であった。

豊かさとは何か?
そして平和とは何か?
「原稿を読む声」一つでも、深い思考を持ちたいと切に思う。
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