寛容なる聞き手
2014-09-03
「聞き手」と「語り手」その意識こそ大変重要だと最近殊に
小欄などはかなり一方的な語り手によるのだが・・・
〈授業〉で行われる「音読」のことを考えるに、「聞き手」意識が重要であるという観点について追究している。〈教室〉で発せられる声の聞き手は誰か?「教師」「級友(集団・個)」「自分」「想像上の他者」等々・・・そんな意識を持って「音読」すると、「読み」への理解度が違うといったことである。孤独な「語り手」となれば、中身のない空虚な声が発せられるだけで、内容理解には程遠い結果となる。
「聞き手」の中に「自分」を設定するとは?例えば、冒頭に小欄は「一方的な語り手」と”語った”が、この今”語っている”文章を、昼頃になると「自分」で読み返すことがある。現在の「語り手」の立場を反転させて、「聞き手」となる。すると己の”今”が違った視点で捕捉できることが多い。何となく自分を振り返るのみならず、その語りの足跡から日々の歩みが把握できる。これが小欄の日々更新による日記的効用なのである。
「不寛容な姿勢で他者に臨めば、むしろ相手の不寛容をけわしくするだけである。」と2日付「天声人語」に教わった。何事も相互の寛容こそ、成熟した関係性というものだろう。もちろんそこには、「妥協」が介在することはなく。この日も僕は、ある方と話す機会に「聞き手」に徹しようと思いきや、いつの間にか自然に旺盛な「語り手」に転じていた。まさにその方が、「寛容なる聞き手」であったことの証拠である。そういえば僕をいつも助けてくれる親友たちは、「寛容なる聞き手」が多いことにあらためて気付いた。
9月の風は
実に、様々な物事を動かし始めている
今一度、己も「寛容なる聞き手」であるか、胸に手を当てて聞いてみたい。
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