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詩「なぜ?」を己に問う

2014-08-15
詩の中にみつけた言葉
そこに己自身を見出す
豊かな〈読み〉に心ふるわせ

研究上必要な文献以外に眼を通してこそ、「読書」が趣味と言えようか。などと考えて、1日1冊詩集を乱読している。もちろん「詩の音読・朗読」学習過程の問題なども考えているので、趣味とはいえ研究への寄与もある。そんな中で出逢った工藤直子氏の詩から・・・

「べんきょうは
 なぜ しなくてはいけなくて
 ひろった犬は
 なぜ すてなくては いけないのかなあ

 あの日 犬とわたしは 目があった
 目があえば カナブンでも毛虫でも 見すててはいけない
 あれは 生き物の合図だから
 だいて帰るあいだだけ 犬もわたしも わらった
 「せめて食べさせてから すてましょう」
 と おとながいった
 いけない それは断じてやさしさではない
 愛ではない
 ーおなかをパンパンにふくらませて
  しっぽをふっていた子犬よ!ー
 その夜わたしは 世界じゅうと 他人になった

 歯は
 なぜ みがかなくてはいけなくて
 ひろった犬は
 なぜ捨てなくてはいけないのかなあ」
(工藤直子「なぜ?」より)


詩の語り手である「わたし」の素朴な「なぜ?」。「おとな」が常識とすることに疑問の視点を投げ掛ける。「べんきょう」「ひろった犬」「歯」をみがくことなどに対する「なぜ?」。「おとな」となれば問い返すこともしないだろう。だがしかし、「常識」や「通例」や「慣習」に呑み込まれ、己の心を無視している「おとな」。それに引き替え、「世界じゅうと 他人になった」とする「わたし」。豊かに生きているのはどちらなのだろう。

世間では多くの奴らが平然と実行していることを、どうしても簡単に実行できないと思うことがある。それは子どものように未成熟な心なのか、それとも純朴で素直な心と呼んでいいのか。「目があえば」・・・「見すててはいけない」とする詩の言葉に、己の生き様を投影してみる。「生き物の合図」を尊重するがゆえに、自然な「情」が生じる。捨てようとする「犬」に「せめて食べさせてから」と言ってしまえる「おとな」にはなりたくない。「やさしさ」や「愛」は崇高であると思うがゆえに。

「犬もわたしも わらった」
笑顔のあいだはいつも美しい
その背後に「痛み」が伴うことを知っているからなのだろうか・・・

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