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「詩」から「死」を読む想像力

2014-07-13
誰しも「死」と向き合うのは怖い
されど避けられぬ宿命
「死」を考えてこそ、今の「生」を大切にできる

今年度公開講座の第3回目「声で味わう詩歌の抒情(パート2)」を開催した。前回は谷川俊太郎さんの「生きる」をもとにオリジナルな詩句を創作し、全員でクラスの「生きる」を朗読してお開きとなった。今回はこれを受けて、「死」と向き合うというテーマを敢えて掲げた。昨今の社会事情を鑑みるに、「死」への想像力が極端に欠如している事例が、後を絶たないという思いがあってのことである。

吉野弘「生命に」では、他者と相互扶助の関係で我々の「生」があるということを。茨木のり子「自分の感受性くらい」では、己の感受性に責任をもって生きよということを。相反した視点で語られた二編の詩を読んで、「今」の「己」の「生きる」を見つめ直すことから始めた。そして教科書教材にもよく採択される高村光太郎「レモン哀歌」・宮沢賢治「永訣の朝」で、妻や妹という近親者の「死」を詠んだ名作に及んだ。高等学校の授業で、これらの詩を読み比べるといった実践もよく行われている。

後半は、竹内浩三の詩。二十三歳で無念の戦死を遂げてしまった浩三の詩には、まさに社会の不条理の中で「生死」の狭間に立たされた抒情が痛切に響く。「よく生きてきたと思う」では、現代でも様々な集団内で横行する「いじめ」に対する思いが綴られる。「五月のように」では、「歓喜して生きよ」を信じることが、弱い自分を救うと語られる。そして、まさに「死」に直面した「出征」をテーマに綴られた「わかれ」「詩はやめはしない」「骨のうたう」へ。受講者とともに朗読さえすれば、もはやこれらの作品においては、微塵の解説も蛇足と化す。

「死」を読む想像力はあるか?政治・経済は、「発展」を旗印とし最優先で物事を押し進める。人の命を軽視した「事務」上の思惑だけが横行し「紛争」を前提としたり、「攻撃」を辞さないという蛮行が平然と実行される。ここのところ毎日のように報道される、イスラエルとガザ地区での紛争の映像を視て、幼い子どもたちを含む市民に兵器の魔の手が及んでいることに、無類なき憤りと悲しみが込み上げる。未来ある尊い命が、「対話」なき相互の愚かな「主張」で失われる。

「おい!お前!死への想像力はあるのか?」
あらゆる為政者に問いたい。

「ことばの力」こそが、人の生死の尊厳を護る唯一の砦なのだと、
僕は常に主張し続けたい。
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