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有権者が力を落としては

2014-07-07
眼を覆うばかりの政治家の姿
野次に号泣と幼稚な感が否めない
だがしかし政治家のレベルは有権者の力による

女性蔑視の野次を、セクハラであるという認識がない都議会議員”たち”。公的資金に対してあまりにも杜撰な感覚しかなく、謝罪会見で幼児の如き号泣をする県議会議員。後者は、海外メディアも揶揄的に取り上げ、米国在住の友人も半ば「笑ってしまう」ような対象としてTVで視たという。最近だけでもこうした事例が後を絶たないが、どうして日本の政治家レベルは、ここまで衰退しているのだろうか。

日曜の朝は、TVを視ていると自ずと政治のことを考える。ある番組で、「有権者のパワーが落ちているので、政治家のレベルも後退しているのだ。」といった論調を展開していた。確かに国政選挙でも地方選挙でも、その投票率下落傾向は甚だしい。「誰がやっても同じ」「難しくてわからない」「はなっから関心がない」などの退廃的理由で、投票の義務と権利とを簡単に放棄してしまう。同時に選挙制度そのものが、民意が反映されにくいものとなり、政治家の緊張感が薄れているという指摘も為されていた。

「関心・意欲をもった態度」を養い、「わからないこと」を「わかる」ように導くのが教育の役目である。PISA調査のリテラシー指標のみならず、教育が真に目指さなければならないのは、こうした「市民」としての「民意」の醸成ではないのだろうか。「国語」に関していうなれば、「言語・文学」を通じて批評性ある思考を養い、個々人が「市民」としての「ことば」を表現できるようになることが肝要なのである。

「話し合い」をすれば、小さな疑問でも指摘する批評性。過度な「非難」ばかりが目立つ社会構造は、批評性をもった指摘をすることこそ、十分な「理解」を示す態度に他ならないという感覚が削がれている。〈教室〉では、到達すべき意見の枠が決まっている(ように運んでしまう)ゆえ「個々の意見を言っても同じ」となる。「同じです」と言っておけば「出る杭」にもならず、他者との軋轢を避けるのに好都合であるという環境ができ上がる。民主主義は、その理念を知識として教えることでは育たず、「ことば」をもって個々人が表現することで「立ち上がる」態度を身に付けなければ衰退の道に到るのではないだろうか。民主主義下で行われて来たはずの教育が、実は真の民主主義にふさわしくない態度を醸成してしまっていることに、大きな過誤があるような気がしてならない。

大河ドラマを視ると、真の”政治家”を心から希求したくなる。
「現代」の方が、確実に民意が反映されるにも関わらず・・・。
社会は、いや歴史は、僕たちが創るのだという思いをあらたにすべきだろう。
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