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「卵の側に立つ」こと

2014-07-05
ふと、このことばを思い出した。
「高く硬い壁と、それに逆らって割れる卵があったら、
 私は常に卵の側に立つ。たとえ壁が正しく、卵が悪くても関係ない。私は卵の側に立つ」
(イスラエルのパレスチナ自治区ガザ侵攻について村上春樹氏の弁)

スーパーで買物をして、エコバッグに詰め込み持ち帰る。その際に、一番気になるのは何よりも「卵」である。緩衝機能のあるプラスチックパックで覆われてはいるが、完全に安心とはいかない。エコバッグの中でどの位置に据えるかからして、とても気を遣うことになる。だがしかし自然の摂理は、一つの生命を守る硬さと、生命が自立する際の微弱な力でも「殻を破る」ことのできる柔弱さを兼ね備えるという、大変”絶妙な均衡”を、我々人間に提示してくれているかのようである。

卵の殻は、人間なら誰でも容易に割ることができるだろう。日常の食材としてしか扱わないでいると、それが”絶妙な均衡”であることをいつしか忘れてしまっている。鳥たちが卵を孵化させるべく温める姿を映像などで見ると、その神業の如き機能の秀逸さに驚かされる。ぬくもりが伝わる程度の”堅さ”にこそ、我々人間が考えるべき”均衡”が暗示されているのではないだろうか。

「高く硬い壁」は、「逆らって割れる卵」の立場が”永遠に”わからない。「高く硬い」ということが「正しい」ことだ、という錯誤から抜け出すのは難しい。すると「高く」もないのにその「壁」に迎合し、「硬い壁」の如き行動をとる手合いの人々が現れる。こちら側は「高く硬い」のであるという論理の一点張りで凝固し、対話など成立しない。意図的に「高く硬い」側に立つ者はまだしも、無意識にそちら側に流れてしまう者もいる。実に哀れであるゆえに、その隙間に「割れる卵」という側もあるという言葉を、投げ掛ける必要があるのではないかと思う。

正悪の尺度が社会の中で錯綜するとき、
人としてどんな言葉と行動が必要なのであろうか。
僕もまた「常に卵の側に立つ」。
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