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「解釈」過程を見つめよう

2014-07-03
「メディアリテラシー」を考える講義
情報発信者が”作り”、情報受信者が受け止める
双方に「解釈」過程があるということは・・・

存在する情報に対して批判的(クリティカル)な思考をもって読み取り対応し、また適切な思考をもって発信できる能力。「メディアリテラシー」を端的にいうと、こういうことになるであろうか。どんな情報にも、発信者の「主観」に根付いた「解釈」が不可分に含まれることを心得ておくべきであろう。WebやTV情報の「鵜呑み」ほど、恐ろしいことはない。(小欄の記述も勿論)

国語教育では、「解釈」を学ぶことが多い。古典学習はもとより「解釈」に重点が置かれる。その文字表現のみを対象に、書かれていることにどんな「意志」が存在するのかを読み取るために格闘する。現代文教材でも小説なら、「登場人物の心情」を問うのも常道だ。それは書かれている情報をもとに、最も「妥当」かつ「適切」な状況に意識を向けて、「客観的な理由」をもって読み取ることである。決して「何でもあり」が許されるわけではなく、偏向した「解釈」になるべきではない「均衡」を学ぶことでもある。

これまで教育全般に、所謂「詰め込み」という失敗が繰り返されて来た。指導者が「知識」のみを一方的に大量放水し、それを学習者は従順に浴びて「意味」も解せず覚え込む。未だにそれが「学習」だと考える子どもたちも、少なからず見受けられる。「読解力」などのリテラシー部門で、世界上位の力を示しつつも、「意欲」と「批判」なき思考が目立ち、試験対策を施されることで「面目を保つ」ことになっている。少なくとも中学校・高等学校においては、「批判」的に思考する習慣を身に付けるべきではないか。欧州の「市民」と、この国に暮らす「民」との決定的な違いは、様々な分野を見渡しても、こんな点に起因するのではないかと考えることしばしばである。

「解釈」はときに「詭弁」となる。
己の「恣意」を通さんがために強引に言いくるめる。
「市民」として、誤った「解釈」を看過しない批評性を担保するために教育はあるはずだ。
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