誰が「戦争に巻き込まれる」などと・・・
2014-07-02
「日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなっていく。」と時の宰相は述べた。
だがしかし、誰が「戦争に巻き込まれる」などと恐れていたのだろうか?
中学生の頃、社会科の授業で「自衛隊」について議論した覚えがある。「9条」の理念のもと、「戦争放棄」こそ日本が堅持すべき「平和主義」なのであると〈教室〉は大勢が理解しつつも、「自衛隊」の存在に疑問が投げ掛けられた内容だったと記憶する。そんな空気の中で、「世界の先進国として自衛隊のあり方をはっきりとすべきだ。」といった意見を述べたことを覚えている。その後、スイスの「永世中立」としての立場など、様々に考えさせられることが多かったと当時を振り返ることができる。
その後、弱冠13歳の僕が述べた「はっきりとすべきだ。」は、重大な均衡の中に置かれた意見であることに気づくようになった。青臭い少年が抱いていた「国を守る」という考えを突き詰めて行くと、歴史と文学が描き出して来た幾多の文化遺産的「ことば」となって峻嶺の如く迫り来るものであることを理解するようになったのである。物理的な遺産を守るように、この歴史が築いた遺産を守り抜けば、「戦争に巻き込まれる」など皆無であるということを、「ことば」を通じて悟ったわけである。
「平和主義は何ら変わりはない」という趣旨。「平和主義」は自明であったはずが、強調すべき「ことば」になってしまった。「日本人の命を守る」という趣旨。守るべきは「日本人の命」のみならず、「世界の平和」ではないのか。その尊大な理念を愚直にでも堅持すべき立場を、我が国は貫くべきではないのか。「国の為に命を落とした方々に祈りを捧げるのは当然だ」という趣旨。誰が「国の為」に命を落とし、死して祈りを捧げられたいだろうか。守るべきは、そのような事態に陥らぬように、「ことば」を信じ抜くことではないのだろうか。言語・文学を研究する立場として、僕は「ことば」の力こそを信用する立場を貫きたい。
悔しきは、「解釈」という「ことば」の作用で、
民主主義に反する強引な采配が揮われていることだ。
幼き幻想が歴史の過誤にならぬよう、
僕たちはこれから「ことば」と格闘し続けなければならない。
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