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野次への謝罪というのではなく

2014-06-24
「野次」そのものというよりも
そこに見えて透ける「発想」にこそ
問題ありということではないのだろうか

東京都議会における「野次」が、問題視されている。それは、投げ掛けられた議員にとって「セクハラ」であり、野次った議員が名乗り出て、当人および世間に謝罪をしたという一件である。これであたかも「幕引き」かのような様相であるが、果たしてこの問題の本質はどこにあるのだろうか。

議会の公式発言でない「野次」ゆえにこそ、実は発言者の本音を露呈しているのではないか、などと考えてしまう。公式発言であれば、事前に「失言」は修正されるであろうし本音を包み隠し問題なき「文章」を事務的に読み上げるということになるだろう。決してそこに本音は露出し得ず、「体裁」と「思惑」が混在した、主体なき「建前」だけが横行するというだろう。

「野次」には元来、「揶揄」や「非難」の要素があるものだ。如何なる場であるか、相互関係はどのようなものかといった「合意」の均衡に対して、不文律な配慮があってこそ”成り立つ”ものではなかったのか。だが今回の問題は、このような「野次」の”不文律”に対して、配慮が足りなかったことへ謝罪すれば終わりというものではないだろう。都民によって選ばれた議員であるからには、その「発想」や根本的「思考」程度が問われなければならない筈だ。

「失言」もまた同じ。メディアもこぞって「言葉」の揚げ足取りに奔走する。それに対して「謝罪」をすれば済むという問題なのか?その本質を監視するのが、ジャーナリズムの役目ではないのか。「ことば」に「発想」を露呈する人物たちに、僕ら一人一人が政治(いや、僕らの生活を)を委託しているという厳しい眼をもつべきだ。今回の都議会での一件で、名乗り出た「野次」の当該議員が謝罪することで、「幕引き」にしようという「思惑」が見え隠れするようにも思う。その「発想」そのもので現況の日本の政治が動いていることに、大いなる危惧を抱くのである。

「ことば」を根拠に「発想」を読む。
国語教育で学ぶべき「力」の一つである。
僕たちは公正な市民であるために「ことば」を学んでいるのだ。

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