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「野球道」の再定義

2014-06-11
桑田真澄・平田竹男著『新・野球を学問する』
を読んでみて考えること多く、
ここにその主旨について聊かの覚書を記す。

留学生向けオムニバス授業担当も、先週火曜日で終わってしまった。彼らとまだ様々に「日本文化(事情)」について語りたく、名残惜しい気持ちで一杯である。その授業の中で、「日本文化」としての「野球」を扱ったのだが、僕自身としても十分な理解を得ていないと思い、更に資料を読みたくなった。その先鋒たる著書として冒頭の一冊(新潮文庫)を選んだ。

同書は、桑田真澄さんが現役引退後に社会人大学院修士課程で学んだ修論の成果について、指導教授であった平田竹男さんとの対談形式で語り出したものである。その主旨として重要なのは、「野球道の再定義」である。明治以来、学生野球に始まりプロ野球の隆盛に至るまでの歴史の中で、「野球」が「道」として根付いて来た理由と、その悪弊について改善を促す重要な提言がそこには示されている。

第二次世界大戦中、「敵性」であるはずの「野球」がなぜ生き残ることができたのか。それは飛田穂洲という人物が、「野球(道)」は「精神の鍛錬」「絶対服従」「練習量の重視」の三点を旨として行うべき競技であると定義し、当時の軍部の意向に沿うものであることを主張し、有意義なものと見なされるように運んだ為であったという。だが問題なのは戦後に至っても尚、その三点が「野球」という競技の性質から離脱することなく、今日にまで至っていることであるというのが、桑田さんの主張である。

いま「「野球」という競技の・・・」と書いた。だが、これは「野球」に限らず日本のスポーツ界全体に波及し、特に学校での部活動を中心に蔓延してきたとも言い換えられよう。更に言えば、「学校教育」全体に悪弊として蔓延し尽くしたといっても過言ではない。極端なもの言いが許されるならば、「国語教育」でさえも、「精神鍛錬」「絶対服従」「練習量重視」がはびこり、個々の「読み」を疎外する「授業(教育)」が実践されてきてしまったともいえるかもしれない。我々は、知らぬ間にこうした特殊事情の中で「野球」を偏見から守った「思想」を、「教育」の重要課題であると勘違いしている節はないだろうか。

そこで桑田さんが、あらたなる「野球道」の定義を試みた。「精神鍛錬」に成り代わり「心の調和」を。それは野球・勉強・遊びの均衡を図り、バランスのとれた人間を目指すということである。「絶対服従」に成り代わり、「尊重」を。それは指導者・選手が相互に尊重し合い、また審判や対戦相手、そして「自分」を「尊重」する態度を重視するということ。「練習量の重視」に成り代わり、「練習の質の重視」を。効率的・合理的な練習を行い、最新のスポーツ医学を導入し、(練習での)失敗も奨励するということ。この三点こそ、新しい時代の「野球道」のあり方として普及すべきであると桑田さんの主張は明解である。

「野球」以外でも、こうした転換の視点が必要であることに気づかされる。
桑田さんのような発想とともに日本の「教育」を再考すべき、
と深く考えさせられる好著であった。
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