「音読・朗読」への誤解
2014-05-29
如何なる方法で如何なる教材を扱い
如何なる「力」をつけるのか
「活動あって学びなし」、昨今の言語活動を中心とした学習に対する警鐘として、よく囁かれる言葉である。活動の典型は、例えば「実験」など。「実験」はしたものの、学習者がどんな「力」を付けたのかがわからない場合が多いという指摘である。確かに学習者が「目的」を見出せない形骸化した活動となっては、授業そのものの意味が失われかねない。
「音読・朗読」という活動ほど、こうした指摘の槍玉にあげられることが多い事項もないだろう。〈教室〉での「目的」なき「音読」活動は、誰しも体験があるからかもしれない。「音読」をした結果、どんな意味がありどんな力を学習者が獲得したのかを見定め難いからである。ましてや発達年齢が上がり、批評的視点を持てるようになった学齢になると形骸化が顕著であることも、この指摘を、どんな分野の専門家でも行えるという安易さの遠因であるように思う。
だがしかし、「音読・朗読」には常に誤解が伴っているように思われる。一般的に思われている以上に、その深度と多様性は幅広く様々な可能性を秘めているものなのだ。黙読と「音読」を並行して実施すれば、文章への理解が構造的に立ち上がる。黙読では見過ごしてしまう微妙なニュアンスは、発声やアクセントに載せることで発見される。元来、文章そのものが持っている「伝える」という目的を、作り手(書き手・語り手)の立場になって立体的に再現するのが「朗読」でもある。〈教室〉で行われる形骸化した「音読・朗読」は、指導者がその意図を持っていないだけなのである。それでは「活動あって学びなし」の指摘そのものであり、時間の浪費に過ぎないであろう。
文章から「伝える」意志を受け取るには、
自らが「伝えよう」として足掻き苦しむ必要がある。
そうして初めて「読む力」が養えるのではないだろうか。
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