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不可解なる「主体」

2014-05-26
実に不可解な「主体」
「主体的に」などという連呼
学習者は本当に「主体」なのか?

教材を能動的に読む、といっても果たしてどうすればいいのだろうか?「学習者主体」が叫ばれてから久しいが、現場の〈教室〉は変様したのか?未だに読む主体は教師であり、学習者は意欲を欠いて受動的となり、そこに存在しているのではないか。安易に使用しつつ、大変難しい「主体」の問題を考えた。

昨日の小欄に記したように、表現者たる作家などは己の人生を賭して苦悶の末に一作品を世に問う。それに「教材」という看板をかけて教科書という「檻」に閉じ込め、付属資料の「指導書」が仮に主張する読み方を「規範」だと勘違いし、その「ある一つ」の型を提示することが「学習」だと思い込まれている。

表現者が「苦悶」するならば、それを主体的に受け容れる際にも「苦悶」が必須であろう。ただその「苦悶」は、避けて通りたい性質のものではなく、その場では学習者自身には見えない価値がありそうだという香りを漂わせるように、〈教室〉で展開するべきものであろう。その「もがき苦しむ」ことの快楽を知り得た時、ことばによって己の存在価値を発見した学習者の人生は、格段に豊かになるのではないだろうか。

意欲的に「もがき苦しむ」
学習者がことばを投げ出す過程
「学び」を創るには「研究」が不可欠である。
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