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喧嘩嫌い

2014-05-16
喧嘩は嫌いだ
ともかく、何があっても
幼少の頃からの僕の思い。

「男の子なら1度や2度は、喧嘩をしたことがある。」という俗言は嘘だ。身体的な喧嘩など、1度たりともしたことがない。小学校のときも「この野郎!」と思ったことがないわけではないが、身体的な闘争に及ぶことは、自ずと回避する術を知っていたように回想できる。中には兄の威厳を頼りに、僕やその友人たちを脅かすいう悪質な輩がいたが、無益な”闘争”をするよりも”逃走”する道を選択していた記憶がある。

また、「道化」という方法も身につけていた。その方法を選択することが最良なのかどうかは別として、大変有効な手段だったと今にして思う。所謂「ガキ大将」に対して、僕はドリフターズの加藤茶さんのような言動を日常的に繰り返し、すっかり”奴”を(僕の)”ファン”にさせてしまっていた。いつの間にか、武力のみでしか己を誇示できない「ガキ大将」よりも、自分の方が「大人」なのだと自認していたように思う。サーカスで一番の技術を持っているのは、「ピエロ」だということを何かの本で読んだことからも影響を受けたのだろう。

本当の「大人」になってからは、「喧嘩」をしなかったかというと嘘になる。特に自分が信じたことに対して権威を笠に着た侵害が為されると、「喧嘩」的状態に至ったことがないわけでもない。だがしかし、その際にも明らかに僕は拳ではなく、ペンや弁舌で信念を守り通したと自認する。その結果、過度の権威的威圧を受けてしまうこともあったが、僕の中にある「信条」を守り抜くことは貫徹できた。

だがともかく「喧嘩」は浪費であり、下劣であり、当事者双方を深く傷付け合う。坂本龍馬が北辰一刀流免許皆伝でありながら、その剣を決して人に振り翳すことがなかったように、「近代以降」という概念があるとすれば、そこでは「交渉」によって闘争は回避できるのである。(もちろん、幕末の権威的な拘束から逃れる為に、龍馬が銃弾を使用した事実はあるのだが。)にもかかわらず、闇での不意を打つ剣によって龍馬が落命したことからも、武力がいかに下等な行為かと歴史を反芻すると、常に思いを致す。

「守る」という詭弁が危ない。
武力を翳す「ガキ大将」と同等の位置に立つのか?
僕は絶対に、ペンと弁舌を駆使する「大人」であり続けたい。
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